webで内容を公開した成果なのか、

中古市場価格が下がってきている。このweb版では著作権のために掲載した写真を大幅に割愛しているため、書籍版も必要であればご入手ください。(当方がもうかるあるわけではありませんが)

この日記の読み方、使い方

このブログは、プロフィールにも書いてあるように、このブログの主宰者である中谷礼仁(なかたに のりひと)による著書『国学・明治・建築家』1993の内容をWEBにて公開しているものです。はてなダイアリー形式と書き込みの順序にのっとっているため、記載順…

『国学・明治・建築家』関連年表

一七三〇享保十五 三重県松阪本町で本居宣長生まれる。本名小津富之助。 一七五六宝暦六 本居処女作『排蘆小船』成る。彼の「日本的なるもの」追及の端緒。 一七七一明和八 本居『直毘霊』成る。作為性の回避としての「道」概念の発明。 一七七六安政五 平田…

本稿は早稲田大学理工学部建築史研究室の修了論文である。今でも思い出すのは、この原稿が、隣の古ぼけたアパートが壊されていたときに書かれたものであったということだ。ちょうどバブルの激しかった時期で、その余波が、僕の住んでいた下町界隈にも及んで…

地図にない言葉をさがしに

(このあとがきはそれほどよい出来ではないと思うのだけれど、書き直すための記憶が脱落してしまっている。当時の24歳の頃の自分の人格を尊重しておきます。)明治以前から1960年代まで一貫した視点を保持するために持ちだした、「論理を還元する者」と「論…

今回の掲載時点では著作権のある写真、図版(特に4章)は割愛しております。

それらについては今後、ヒマな時にでも当方が撮影した図版等で補っていきたいと思っています。 ただどうしても補えない写真というものがあるものです。 4章で一番使いたかった写真は、丹下健三氏自身が撮影した写真でした。 藤森照信著『丹下健三』にも掲載…

東京計画1960

あの灰色の雲のようなもの。巨大な煙幕は急速にかたちを整えつつあった。紛れもなく何かが生まれつつあった。『メイコン・ハインツ』だ。*1 1960年6月23日、新安保条約が批准された。まれにみる動員力を誇った反対運動は新たな局面を迎えていた。9月には早々…

川添登とメタボリズム

メタボリズムは60年代を象徴する建築運動として知られている。しかしその史的定義は未だ確実にはなされていない。建築史家布野修司*1によれば、メタボリズムは、評論家川添登が中心となり1960年、東京において開催された「世界デザイン会議」を契機として組…

ノリのような建築

1960年のある講演会で丹下は次のように言っている。 …別の角度の問題として、次のような点をまた考慮してみたいと思います。私達の時代のマスコミュニケーションやマスプロダクションが、私たちの生活にもたらしてきている影響でありまして、私たち現代の人…

"ノリのような建築" 東京計画1960以降

従来からすぐれた視点を提出している評論家松山巌は、丹下健三についていくつかのコメントを残している。彼もまた、丹下に憑かれた一人である。1987年に執筆された小論「ノリのような建築」*1は、きわめて興味ぶかい視点を提供している。 松山は、「ポスト・…

モデュロールとコア・システム

丹下が、近代「日本国」建築史上において、きわめて珍しいシステム指向の持ち主であることは述べた。そうであるならば、先のような言説も設計方法論という具体的なレヴェルで展開されねばならない。ここではその例として二つのシステムをひきあいに、丹下が…

伝統論争…「篤胤的なもの」  

そのような本居的土壌との対決という意味において、50年代の丹下が展開した伝統論を読解してみることは興味深い。もちろん「篤胤的なもの」などという存在があるわけないのだが、本居的『自然』の呪縛から離脱してゆこうとするとき、その丹下の姿勢は「日本…

民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関

では、丹下は「民衆」に対してどのような姿勢をとったのだろうか。 実は、すでに過去のものと思われていた彼の建築論「MICHELANGELO頌」での、「創造」における「天才」の社会的位置づけがそのまま踏襲されている、あるいはより整合化されて表れているといっ…

東京計画1960まで

丹下はグレートだった。そう正直にいったん、認めてしまっていい。おそらく彼だけが特有の方法論とたぐいマレなる構想力をもって戦後の混乱期を一点のよどみもなく突き進むことができた。もちろん彼の「天才」指向を批判することは正しいし、たやすい。とは…

以前僕がまだ大学に入りたてで、建築のケの字も知らなかったころ、とある銀座の名画座で、「24時間の情事」*1というフランス映画を見た。

岡田英次ふんする日本青年と、大戦の傷跡を背負ったフランス人女性との、戦後のヒロシマを舞台にしたメロ・ドラマなのだが、僕はこの薄暗い映画館の中で、建築というものについての深い学習をするとは思ってもみなかった。 ちょうど、僕が大学に入った頃(198…

4章 何トナク反メタボリズム

4・0・1 はじめに 4・1・1 東京計画1960まで 4・1・2 民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関 4・1・3 伝統論争…「篤胤的なもの」 4・1・4 モデュロールとコア・システム 4・2・1 東京計画1960以降 4・2・2 「ノリのような建築」…

「大東亜記念造営計画」の意味

近代「日本国」建築のなかのいくらかの人びとが、心の中で「戦犯」的だと感じていたかもしれない丹下のプロジェクト案としてのデビュー作、「大東亜建設記念造営計画」*1における1等賞は史的にも評価が分かれていた。たとえば戦後建築界が「戦争協力」の一言…

仮構された「近代の超克」が生んだもの

表現とは単に客観的なものの模写ではなく、客観的なものと主観的なものとの、内的なものと外的なものとの統一として形成されるものが単に人間的に止まらぬ超越的な客観的な意味を有するところに表現がある。そのことは人間的存在が屬々誤解される如く単に主…

「MICHELANGELO頌」再訪

基本的に、「MICHELANGELO頌」は立原の『方法論』の骨格を受け継いでいる、といってよい。 生の諸力は、一度び成立して生の妨害者となった芸術に咬みつき、…古き形式を新しき形式で追ひやり、…結局は全文化様式の絶えざる變易が行われる。かかるもの飽くなき…

「私性」から「神性」へ…戦中期における丹下の意味

ここまで書いたら丹下の特質がはっきりとあらわれてれてくるだろう、と思っている。 立原は「人工としての白い花」の中に絶望とある安寧をもって死んでゆく。浪漫派はラヂカルな居直りの果てに望んだがごとく惨落していった。それにくらべて、丹下は強かった…

「神性」になりきれなかった「私性」

■日本浪漫派について 当時立原は原稿の依頼を通じて、雑誌『新日本』の中核メンバーであった日本浪漫派といわれる特定の指向を持った文学者グループとの親交を深めていった。日本浪漫派の出現は昭和10年代の余りに象徴的な事件として語られている。その運動…

丹下への手紙

そのニヒリズムは、当時帝国大学に在籍していた後輩、丹下健三への手紙の中でその結論を出したように思える。昭和13年、谷口吉郎はベルリンへ旅立っていた。 10月28日[金] これは東京で書いています。かへつて来てとうに一週間ちかくなるのです。…自分の得た…

『方法論』をとおして

僕は、25歳で夭逝した詩人としての立原につきあう気がない。昭和12年、彼は帝大の建築学科を卒業するが、そのときに書かれた卒業論文である『方法論』*1から、立原の軌跡を追ってゆくことにしよう。彼は終章である「人間に根づけられたる建築の問題」におい…

「自己」の上昇の果てに…立原道造

廣松渉は昭和初期から戦争突入における時期に、広く一般に共通のある前提があったという興味深い話を披露している。 …昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に意識されていた。当時の常識では戦争というものは…

近代の超克論議についての簡単なデッサン

僕は当章をながれる裏テーマとして、昭和17年、雑誌『文学界』誌上で行われた「近代の超克」論争をひそかにおいていた。また「近代の超克」という言葉自体が、当時の知識人たちのあいだで流行語になりえたことからも、この座談会は時代的な現象であったとい…

『自然』信仰…つくることへの疑い

生きている「私」に関わらず、私のつくりだして来たものは時代の流れと共に生きてゆくかも知れない。過去の偉大な時代に完成されたいろいろな造形物を通観すると、ある特定した美の性格が発見される、と谷口はいう。さらにいかなる作家も、彼自身が無意識で…

清らかな意匠…「あるがままの美学」の論理構造

谷口にいわせれば、「意匠心」は生活美につきるという。「意匠心」とは美しき造形を求める生活の「道」である。さかのぼれば、日本人の生活には、何から何まで、衣食住はもとより、政治も宗教も、すべてが詩と美しい形の創作であった時代があった、庶民生活…

分離派批判

谷口の建築論におけるデビューは昭和3(1928)年の分離派批判から始まる。分離派建築会はこの年の第7回展覧会をもってその活動を停止するが、谷口は激烈な調子でその退廃ぶりを批判する。 …建築硬化症の産物たる退嬰的な耽美主義の蠢動だ。建築を叫ぶもそれは…

不可視の清らかさ…谷口吉郎を通じて

昭和17年9、10月、雑誌『文学界』に掲載された「文化総合会議シンポジウム―近代の超克」という座談会の中で、小林秀雄は日本の古典の「普遍」性について次のような言説を残している。 僕としては、古典に通ずる途は近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた様に…

「自己」とナショナリズムとの相克する観念世界を読み解く

当時よりひいては現在に至るまで、近代「日本国」建築総体の主役は、「空気」となった本居的モダニズムである。そしてその基調の中でいわゆるフリー・アーキテクトによる多様な変革への試みが繰り広げられる。 一般に、分離派から建築運動がはじまったといわ…