地図にない言葉をさがしに

(このあとがきはそれほどよい出来ではないと思うのだけれど、書き直すための記憶が脱落してしまっている。当時の24歳の頃の自分の人格を尊重しておきます。)

明治以前から1960年代まで一貫した視点を保持するために持ちだした、「論理を還元する者」と「論理を立てる者」という二分法は、吉本隆明の「日本のナショナリズムについて」という小論にヒントを得ている。この分類にしたがって近代「日本国」建築を検証していったときに現れたのは、可視的な「日本的なるもの」よりも、一見モダンなふるまいの中にこそ、批判されるべき問題が生き続けてきたという逆説であった。だからこそ、近代「日本国」建築の系譜は現在的問題につながり、加えて60年代以降の「近代」の反省以降の根幹にあるニヒリズムをも浮かび上がらせているように思える。

まず、僕たちは表現者として豊かであるべきならば、自らの構想力をあちらがわに明け渡してはならない。
ここで跳びましょう、テリトリーをなんとか広げていきましょう、としか僕には言いようがない。建築家原広司がいささかの躊躇もなく、21世紀には、建築をはじめとする芸術は、哲学にとってかわるというとき、僕たちはそれを信じて協調する以外にないのではないか。原の発言は天才バカボン的だが、近代「日本国」建築の系譜からふりかえるとき、そんな天才バカボンのたくましさこそが待ち望まれていたといってもいい。
幸運なことに60年以降の思想的営為は、僕たちの「日本的なるもの」を発見しつつある。例えば中沢新一は、「自然の模倣」という二重のニヒリズムに呪縛された、近代日本がつくりあげた「庭」を、軽がると越える。

日本の作庭家すべての先祖である石立て僧や山水河原者が、その造園の仕事の本質を「石を立てる」と表現したことの意味がこうしてはっきり見えてくる。彼らによって立てられた石は、これからそこに現れてくる庭園の全てを決定する点なのである。カオスをけりたててそこに一つの空間が立ち上がる、その純粋な空間の、それは「顔貌」だ。というよりも、宇宙的なエネルギーが空間としてその「顔」をこの世界に突き出させる、その先端に現れるのが「庭」なのである。ここは浄土と呼ばれる楽園である。それは土と水と植物と、ときおりそこを訪れる小鳥や水鳥やそのほかの動物と、大気の動きともろもろの気象の変化からなる、一つのフィジカルな場所にほかならないけれど、そこに立ったことで人々は大地の風景の中から、様々な菩薩や天人が虚空に向かって飛び立とうとしているような、不思議な運動を感じるのである。     『虹の理論』

中沢が言うように、僕たちはそんな作庭家の精神の系譜を生き続けねばならない。
論理はそれ自身で「自律」的に表現されながら、かつ新しく関係するためにいったん閉じられた、表現されうるものの片割れでもある。だから常に言葉が「立てられる」とき、同時に発見的でありえる。そんな「日本建築史」は明るいはずだ。これが第一の結論。

しかしこの世のなかの表現された物たちは、「建築論」との関係を必ずしも必要としていない。僕たちが「建築論」的に見ようとするときだけにそれは必要となるだけだ。ある表現物が表れるためには、それ自体にすでに合目的な観念(として表現されたもの)と、手段(として表現されたもの)とが存在している。そしてそのまわりに批評的な関係がさらにつきまとっている。その関係を通してはじめてある表現物に特定の「意味」「価値」が生じる。だから異なる関係においては、その表現物は異なる「意味」「価値」を持たされるはめにもなりえる。言葉で構築する僕たちの仕事は以上のような関係を作りだす場を出られないはずである。しかしそれは可能的な関係でもある。
それらの関係は単に恣意的なだけではなく、ある意思によって、それらは蜜月にもなりうる。ここに僕たちは「建築論」としての表現の希望をも見いだすだろう。たとえば「美術vs実用技術」というある抽象平面における対立図式が、それぞれによって指し示されている表現物に一定の意味を与えている。これからの史的記述は、こんな時代オクレの関係を改変してゆく表現装置でもある。建築は建てるしか術がない代物だとしたら、だったらその術を書くことでさがしてもいいはずなのだ。
不幸なことに「本居的なもの」以外のさまざまな建築的な試みが、「観念」と「手法」との乖離に悩み続けるうちに、忘れ去られてゆく。そのような状況は「現在」という地図の裏に流れる、過去からの観念的な連続体が、地下で右往左往しているといった構図を生みだしもしている。それらがあらぬ所で噴き出す前に、僕は僕の目にかなった連続体を、主体的に表すことはできるはずである。だから第二の結論は、今からはじまる。
1900年の幕開けとともに始まった第5回内国勧業博覧会という「柔らかな場」を思い出してほしい。あのとき、阿部今太郎という無名の大工によってあらわにされたパノラマ建築の持つ明るさをつかまえてみたい。パノラマ建築の系譜は、大正期、制度的に固定化しつつあった建築的状況にあって、消滅してゆく運命を辿ったが、それは言葉の中で生き続けていた。たとえば江戸川乱歩はパノラマ建築のモチーフをうちに秘めながら、実現されなかった建築世界を『パノラマ島奇談』として僕たちの前に実現させた。それはちょうど、篤胤が「妖怪」という、言葉とカオスとの境界線上の物語に、自らの構想力を閉じつつ開いていったことと似ている。それはもはやフィクションではないフィクション―表現されうる存在―なのである。阿部の螺旋塔も、同じように表現されうる存在として僕たちの前にある。今から僕と螺旋塔の新しい関係を見つけるために、またワープロにむかおう。 1989年2月