ナショナリズム(「内部」−「外部」論理)…幕末から明治へ    


図1-1 寛文長崎図屏風(部分)、出島に代表される交易システムは、島が閉じられてからも洋風輸入のモデルとして明治政府に浸透していた。長崎市立博物館所蔵。


貴国も今またかくのごとき災害にかかりたまわんとす、およそ災害はにわかにおこるものなり、今より日本海に異国船の漂い浮かぶ事、いにしえより多くなり行きて、これがために其舶兵と貴国の民と忽ちあらそいを開き、ついには兵乱を起す*1

17世紀初頭におけるイギリスの東インド会社設立以来はじまった、西欧諸国のアジア進出は、特に19世紀において、産業革命、それによる資本主義的な経済体制の勃発をへて、その激しさを増していたと歴史の教科書はいう。
そのような中、なぜか知らねどニッポンが、インド、清国の悲劇にみまわれることもなく、「鎖国鎖国」といきまいて、とはいえ内実なんの戦略らしきものも持たず、「赤毛」やら「黄毛」やらがうごめく世界体系への突入の意味の恐ろしさを量りあぐねているうちに、
「もはや実力で」と、大砲かかえて、血相かえて、図体6尺をこえ異臭をはなつ、「メリケン国」より来る不逞の輩、これまたばかデカイ真っ黒なはがねの城4隻にズシンとかまえ、それも天下のおひざもとの江戸港で、大陸貿易の中継所としての港、それから石炭、もひとつ食料、ついでに「友好」なるものをも、求めるにおよんだ。
幕府あわてて、両国の、ひいきの力士よびよせて、力比べなど試みるも、全くもってつけやきば、まずは御退散あれと、ホット胸をなでおろす始末。

 アメリカが早くかえってよかったね又くるまでは少しおあいだ(当時の川柳より)

これ、俗に言う「黒船来航」、時に嘉永六年六月三日、西洋暦なるものにして1853年7月8日の事であった。

実質的に、江戸幕府が「仕方なく」開国することを迫られたこの事件以来、「王政復古」の明治政府が政権を獲得する明治元年(1868年)までの、15年の短い期間は、一般的には日本史上(戦後をのぞいて)ほかに類例を見ない大転換点として語られている。
その大枠に異論をはさむ能力はいまのところないけれど、その転換期を微細に点検していったとき、いくつかの奇妙な事実に、好奇心をそそられることがある。下にいくつかの問題を提起しよう。
Q1・まず幕府と明治政権とのあいだになんらかの連続的な視点をすえることはできないだろうか?
もちろん可能だろう。それらの転換が、当時まだ戦力的に余裕のあった幕府側の、とりあえず自発的な形式による大政奉還のもとに展開して行ったのを見るとき、彼らもまた、天皇を筆頭におく政治体制のもとで、いわゆる「公武合体」という実質的な権力掌握の継続を図ったものとみることができるから。
当時の徳川家将軍であった慶喜も、土佐藩山内容堂らをその政治的攻略の筆頭に置き、その青図を着々と進行させていたといわれる。しかし西郷隆盛ら、新しい体制を創りだそうとする倒幕派の挑発にのった幕府方は、江戸薩摩藩邸の焼討ち、鳥羽・伏見への出兵を強行した。これを口実に勅命をうけた倒幕派がそれを向かえうつかたちで、暴力革命を成功させた、というのが現在一般に認知されているシナリオである*2
また「暴力革命」の立て役者である西郷隆盛もこれをさかのぼること、わずか3年前倒幕派のねじろであった長州藩の征伐に一役買ったり、明治政府樹立後の1877年、政府に対して西南戦争をおこして自害している。それら情勢は微妙であり、皮相な言い方をすれば、幕府も倒幕派も玉(ぎょく:天皇)をめぐる権力争いにすぎないということもできる。

Q2・「佐幕派」(幕府擁護派)と「倒幕派」(尊王攘夷派)とのあいだの開国を巡る、奇妙な一致とずれ
Q3・「尊王」という概念についての、同様な、一致とずれ
又彼らをつき動かしたこれらの概念についても、時期的なずれが闘争を複雑にしてはいるが、その論理構造は驚くほど一致している。
幕府は、黒船来航以来、開国を前提とした政策に転向を余儀なくされる。一方攘夷論者であり倒幕派の先頭であった長州藩薩摩藩も、1863年から64年にかけて各西欧諸国を相手に勝てぬ戦いくさをためした後で、いたずらに攘夷に固執する「小攘夷」を捨て、富国強兵をおこない外国の長所を採用し、万国に対峙するという「大攘夷」へと政策を急転換させた。この政策の変更によって幕府をしのぐ勢いで、以後西洋技術を積極的に輸入し結果的に革命に幸いした、といわれている。
また開国をめざす以前の幕府にも、「尊王」「攘夷」思想の流れは、幕府の思想的な核でもあった水戸藩を筆頭に、鎖国を思いおこすまでもなく幕府の政策の成立根拠としてもあった。その流れは、幕末における天皇を筆頭とした幕府体制による支配をめざした「公武合体論」にも連なりえている。

以上より、その論点を整理してみると、

  • 倒幕派の行いえた維新革命は、国外政策的にみれば、幕府の試行した開国政策の路線を踏襲しており、そこには江戸期以来の一貫した対外概念が存在しているということ、

又、両者に共通してみられたことだが、

  • より強大な「外部」の存在に遭遇したとき、そしてもはや被侵略という形を想起せざるをえない場合、「国体」の概念を保持し続けるためには、もはや「外部」と同レベルの体系をかたちづくるための「洋風政策」を標榜せざるをえなかったこと、

ゆえにその、

  • 「洋風政策」の裏側には、強固な対外概念が付着していること。

をまず抽出することができる。


これらの特徴を以下のように抽象的に規定してみる。
一般に、共同体B(あるいは後にBと命名される何物か)が、関係がA>>Bであるような外的な価値体系Aに接触したときに、BがBであること―アイデンティティを守りつつAと交通するためには―外部Aと同レベルの体系A'をつくらなければならない。つまりBとして規定された内部をAのように構築することである(A')。幕末から明治初期にかけての「日本」に、この図式をあてはめることができる。つまりA=「西欧」、B=「日本」、A'=「洋風政策」である。
この図式を成立させる前提を、後進国(世界流通への新規参入者)としての政策を規定する*3 「外部―内部」的認識としてまず把握してみる。
ここから導きだされるナショナリズムとは、複数の共同体間の交通を前提とする体系において、普遍性をまとうことのできない局所的な共同体が、「外部(自国以外)」と「内部(自国)」という仮想の境界線をうみだす認識*4―「外部―内部」的認識―と、次にその内的秩序を継続させようとするために発生させる「自律」的な観念の構造として規定できる。先の「外部―内部」的認識は、まずナショナリズム発生の基本的認識である。ここでのナショナリズムの意味は、それ以上でも、それ以下でもない。
つまり従来にあって「ナショナリズム」は特に観念論上の問題としてのみ把握され、すでに多様な意味をはらんでしまっており、それらを定義することには困難がつきまとう。しかしここでは根本的に問うことを崩せない。であれば、前述のように認識論的な位相にまで遡行することによってそれは可能であろうと思われる。つまり僕たちが「日本」人であること、あるいは「日本」に住んでいるというアタリマエの認識を問うてみることである。ここでいう「外部―内部」的認識とは、「日本があって外国がある」という常識を再び意識的に扱わざるをえないことをしめしている。つまり「近代」「日本」「建築」が存在しているという認識のアタリマエさから一体どのような構造がせりだしてくるのかをみなければならないのである。

当論においては日本近代建築におけるナショナリズム―「外部―内部的認識」―の推移と構造を細かく検討してゆくが、まず明治政府成立においてナショナリズム的認識が端的に表出した、交換の場でのドキュメントを語らなければならない。もはや「出島」は消滅の運命にあったが、その理念は「明治政府」という境界線上の制度に、より広範なかたちで受け継がれていく。それは「世界」体系に突入しながら、なおかつ「国家」概念を保証させる閉じた交換体系の構造を持っているはずである。

*1:アヘン戦争終結後、幕府に対するオランダ国王の国書より、1844年、旧仮名づかいは改めた。

*2:「一般的に認知されたシナリオ」として、『日本の歴史19 「開国と攘夷」』、小西四郎、中央公論社、昭和49年を主に用いた。

*3:本稿でいう後進国を、均質な社会性に世界を還元してゆこうとする近代化の史的変遷を調節し、あるいはそれに対立してゆこうとする共同内的な秩序が、「国家」的な表現―政策―として「外化」した場合(世界流通へ新規参入した場合)に限って用いることとする。端的には明治期の洋風政策のことをさしているが、当時の西欧にあっても近代化に対立する内的な秩序は存在していたし、また現在においても同様である。

*4:「外部―内部」の認識は、前提としてまず「異国」VS「自国」という並列的な対共同体の図式によって規定されるだろうが、すべての価値を貨幣という普遍性において還元しようとする近代(=資本主義)社会においては、これが「普遍性、世界性」VS「固有性」の問題として観念的に把握されるだろう。しかしいずれもが「外部―内部」という二元的な認識においてなりたつことである。