2007-11-01から1ヶ月間の記事一覧

川添登とメタボリズム

メタボリズムは60年代を象徴する建築運動として知られている。しかしその史的定義は未だ確実にはなされていない。建築史家布野修司*1によれば、メタボリズムは、評論家川添登が中心となり1960年、東京において開催された「世界デザイン会議」を契機として組…

ノリのような建築

1960年のある講演会で丹下は次のように言っている。 …別の角度の問題として、次のような点をまた考慮してみたいと思います。私達の時代のマスコミュニケーションやマスプロダクションが、私たちの生活にもたらしてきている影響でありまして、私たち現代の人…

"ノリのような建築" 東京計画1960以降

従来からすぐれた視点を提出している評論家松山巌は、丹下健三についていくつかのコメントを残している。彼もまた、丹下に憑かれた一人である。1987年に執筆された小論「ノリのような建築」*1は、きわめて興味ぶかい視点を提供している。 松山は、「ポスト・…

モデュロールとコア・システム

丹下が、近代「日本国」建築史上において、きわめて珍しいシステム指向の持ち主であることは述べた。そうであるならば、先のような言説も設計方法論という具体的なレヴェルで展開されねばならない。ここではその例として二つのシステムをひきあいに、丹下が…

伝統論争…「篤胤的なもの」  

そのような本居的土壌との対決という意味において、50年代の丹下が展開した伝統論を読解してみることは興味深い。もちろん「篤胤的なもの」などという存在があるわけないのだが、本居的『自然』の呪縛から離脱してゆこうとするとき、その丹下の姿勢は「日本…

民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関

では、丹下は「民衆」に対してどのような姿勢をとったのだろうか。 実は、すでに過去のものと思われていた彼の建築論「MICHELANGELO頌」での、「創造」における「天才」の社会的位置づけがそのまま踏襲されている、あるいはより整合化されて表れているといっ…

東京計画1960まで

丹下はグレートだった。そう正直にいったん、認めてしまっていい。おそらく彼だけが特有の方法論とたぐいマレなる構想力をもって戦後の混乱期を一点のよどみもなく突き進むことができた。もちろん彼の「天才」指向を批判することは正しいし、たやすい。とは…

以前僕がまだ大学に入りたてで、建築のケの字も知らなかったころ、とある銀座の名画座で、「24時間の情事」*1というフランス映画を見た。

岡田英次ふんする日本青年と、大戦の傷跡を背負ったフランス人女性との、戦後のヒロシマを舞台にしたメロ・ドラマなのだが、僕はこの薄暗い映画館の中で、建築というものについての深い学習をするとは思ってもみなかった。 ちょうど、僕が大学に入った頃(198…

4章 何トナク反メタボリズム

4・0・1 はじめに 4・1・1 東京計画1960まで 4・1・2 民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関 4・1・3 伝統論争…「篤胤的なもの」 4・1・4 モデュロールとコア・システム 4・2・1 東京計画1960以降 4・2・2 「ノリのような建築」…

「大東亜記念造営計画」の意味

近代「日本国」建築のなかのいくらかの人びとが、心の中で「戦犯」的だと感じていたかもしれない丹下のプロジェクト案としてのデビュー作、「大東亜建設記念造営計画」*1における1等賞は史的にも評価が分かれていた。たとえば戦後建築界が「戦争協力」の一言…

仮構された「近代の超克」が生んだもの

表現とは単に客観的なものの模写ではなく、客観的なものと主観的なものとの、内的なものと外的なものとの統一として形成されるものが単に人間的に止まらぬ超越的な客観的な意味を有するところに表現がある。そのことは人間的存在が屬々誤解される如く単に主…

「MICHELANGELO頌」再訪

基本的に、「MICHELANGELO頌」は立原の『方法論』の骨格を受け継いでいる、といってよい。 生の諸力は、一度び成立して生の妨害者となった芸術に咬みつき、…古き形式を新しき形式で追ひやり、…結局は全文化様式の絶えざる變易が行われる。かかるもの飽くなき…

「私性」から「神性」へ…戦中期における丹下の意味

ここまで書いたら丹下の特質がはっきりとあらわれてれてくるだろう、と思っている。 立原は「人工としての白い花」の中に絶望とある安寧をもって死んでゆく。浪漫派はラヂカルな居直りの果てに望んだがごとく惨落していった。それにくらべて、丹下は強かった…

「神性」になりきれなかった「私性」

■日本浪漫派について 当時立原は原稿の依頼を通じて、雑誌『新日本』の中核メンバーであった日本浪漫派といわれる特定の指向を持った文学者グループとの親交を深めていった。日本浪漫派の出現は昭和10年代の余りに象徴的な事件として語られている。その運動…

丹下への手紙

そのニヒリズムは、当時帝国大学に在籍していた後輩、丹下健三への手紙の中でその結論を出したように思える。昭和13年、谷口吉郎はベルリンへ旅立っていた。 10月28日[金] これは東京で書いています。かへつて来てとうに一週間ちかくなるのです。…自分の得た…

『方法論』をとおして

僕は、25歳で夭逝した詩人としての立原につきあう気がない。昭和12年、彼は帝大の建築学科を卒業するが、そのときに書かれた卒業論文である『方法論』*1から、立原の軌跡を追ってゆくことにしよう。彼は終章である「人間に根づけられたる建築の問題」におい…

「自己」の上昇の果てに…立原道造

廣松渉は昭和初期から戦争突入における時期に、広く一般に共通のある前提があったという興味深い話を披露している。 …昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に意識されていた。当時の常識では戦争というものは…

近代の超克論議についての簡単なデッサン

僕は当章をながれる裏テーマとして、昭和17年、雑誌『文学界』誌上で行われた「近代の超克」論争をひそかにおいていた。また「近代の超克」という言葉自体が、当時の知識人たちのあいだで流行語になりえたことからも、この座談会は時代的な現象であったとい…

『自然』信仰…つくることへの疑い

生きている「私」に関わらず、私のつくりだして来たものは時代の流れと共に生きてゆくかも知れない。過去の偉大な時代に完成されたいろいろな造形物を通観すると、ある特定した美の性格が発見される、と谷口はいう。さらにいかなる作家も、彼自身が無意識で…

清らかな意匠…「あるがままの美学」の論理構造

谷口にいわせれば、「意匠心」は生活美につきるという。「意匠心」とは美しき造形を求める生活の「道」である。さかのぼれば、日本人の生活には、何から何まで、衣食住はもとより、政治も宗教も、すべてが詩と美しい形の創作であった時代があった、庶民生活…

分離派批判

谷口の建築論におけるデビューは昭和3(1928)年の分離派批判から始まる。分離派建築会はこの年の第7回展覧会をもってその活動を停止するが、谷口は激烈な調子でその退廃ぶりを批判する。 …建築硬化症の産物たる退嬰的な耽美主義の蠢動だ。建築を叫ぶもそれは…

不可視の清らかさ…谷口吉郎を通じて

昭和17年9、10月、雑誌『文学界』に掲載された「文化総合会議シンポジウム―近代の超克」という座談会の中で、小林秀雄は日本の古典の「普遍」性について次のような言説を残している。 僕としては、古典に通ずる途は近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた様に…