「美術」という価値

明治時代は言葉の発明が盛んに行われた時代であった。それこそ前述の特殊な交通によってもたらされたその運動は、具体的に何を指し示しているのか、深く考えるほどさっぱりわからない言葉の群れを生んだ。ここで本題としたい「美術」という言葉もその一例である。
たとえば中村義一*1によれば、「美術」の字句が日本ではじめて使われたのは、ウィーン万国博覧会に出品をすすめるために全国各府県に発せられた、明治5(1872)年正月の参議大隈重信による「出品差し出し勧請書」に添付された出品規定の訳文内においてであるらしいことが、現在わかっている。ウィーン万国博覧会の成果に学ぶところがあった明治政府は、貿易増進につながる伝統美術の奨励を目的に内国勧業博覧会をくわだて、明治10年と14年に開催した。内務省により行われた内国勧業博覧会は、建築もふくめ、当時の国内に存在していた様々な工芸の文化に、「貿易美術」という共同体間の価値(世界市場における価値)をあたえ、対外向けの「ニッポン」印の新商品としての価値的再生産を与えることに成功した*2
明治15(1882)年に、出版され、以後の日本における「美術」という概念のおおもとを決定したとまでいわれているA・フェノロサの「美術真説」が、同年5月に行われた「日本美術工芸ハ果シテ欧米ノ需要ニ適スルヤ否ヤ」と題された講演会の筆記翻訳であったことは、以上のような意味で象徴的であろうと思われる。

彼等未ダ知ラズ欧人何ヲ要スルヲ…鳴呼製造貿易ノ萎靡シテ振ハザル亦怪ムニ足ラザルナリ
「美術真説」

フェノロサの貿易論としての講演が、美術の「真説」と翻訳されて、国内一般に流通したという経緯は、見落とされやすいが非常に重要なテーマをはらんでいる。つまりこの意図的な翻訳でもあった「美術」という言葉は、その初期において国内における様々な工芸を、「世界―ここではとりあえず西欧」という新しい市場へ突入させるために加えられた解釈、言語装置でもあり、ここでは「日本」という国家概念から生じる対「世界」へのレッテルとして、国家が主体となって工芸全般に覆いかぶせた、オリエンタリズム・エキゾチシズムという、以前とは異なる位相の交換価値としてある。
また同時に洋風移入のための「美術」概念は、西洋の価値体系を「内部」に対置させた、「」つきの「外部」というレッテルのもとに閉じ込める。それによって、「国家(内部)」を保証した構図、つまり「内部」が「外部」を主体的に買いあげること、を可能にさせたということもできる。つまり国外の諸文物を新たに設定された「外部」に回収することによって、「内部」を不可侵の領域として残存させる、閉じた交通の場―出島―として「美術」を位置づけることができる。
「美術」という言葉は、現在ではもはやその積極的な意味あいを失いかけている。しかし当時においては植民地支配という殺るか殺られるかのスリリングな物々交換にも似た国家間の関係を調節しようとする、ビビッドな交換装置でもあったのである。明治元年にエキゾチシズムに満たされた外人専用ホテル・築地ホテルを建てた棟梁二代目清水喜助は、丁度そのころ、明治政府御用達の請負職として近代日本という閉じた市場における足場を固めていた*3 。そしてオリエンタリズムを売るかわりに、「美術」というフィルターを通して、「日本」は何を買ったのだろうか?
実はわからなかった。「美術」という概念から出発し、それを設計の根拠においた優れた設計者ほどそこで立ちどまってしまったのだ、ということができる。

図1-2 当時の錦絵(国輝画)による、二代目清水喜助設計施工の東京駿河町三井組(為替バンク三井組、明治7年)、右側に同じく喜助設計の第一国立銀行(海運橋三井組、明治5年)の塔部が描かれている。


明治九年十一月六日工部美術学校ヲ創設…抑本邦彫鏤師と称トセラルルモノハ概ネ傭職ノ賎業ニ属シ、絶テ上流人士ノ之ヲ学ビ、以テ身ヲ立テ名ヲ顕スノ技芸ト為スモノナク、欧州ニ在テ貴重セラルル彫刻学ノ如キモ亦甚世ニ稗益アル事ヲ了知スル者ナシ。是此法規ヲ特設シテ之ヲ奨励スル所以ナリ*4

洋風建築のはじまりは、開化派の伊藤博文らによってその制度的布置をかたちづくられた、といわれている。明治3(1870)年に伊藤を長として発足した、殖産興業のための官営事業を推進することを目的として設立された工部省は、その後も積極的な外人技師の雇用にあたった。またより大きな課題である西洋の技術そのものを体系的に日本に移植させるための、明治4(1871)年における省内の教育機関である工学寮の設置、ダイエルら「外人」教師の招来、明治9(1876)年の工部「美術」学校、そして現東大の前進となった明治10(1877)年の工部大学校の設立など、着実な制度的措定を行い、明治12(1879)年、イギリス人建築家J・コンドル指導のもとに、辰野金吾を筆頭に4名が初の卒業生として送り出されることになる。
ここで再び意識すべきことは、「建築」*5の起源が、明治政府の洋風政策(=対外政策)に伴う制度としてあらわれたというもはや「常識」になりつつあることの重みである。つまりそれは設計者自身が「建築とはこうだ!」とかいう前に、もはや「建築」にはナショナリズム―「外部―内部」的認識―の生み出す構造が大枠として決定していることを示している。
そして「美術」は「内部」を保証するかたちの「外部」の受け入れ方を示す、フィルターとしてある。それは『洋風―のようなもの』というルール以外は本質的に何も語らないにひとしい。そのような方法論としてはゼロな概念に、「本質」を求める作業をおこなうことは、建築家それぞれの多様な解釈を導きだすことになる。
そこに内的な基準は存在しないから、「美術」の理論的求道者がいるとすれば、彼は「美術」を、たとえば以下のように、いきおい形而上的に扱わざるをえない一見不毛とも思える立場にも陥ってしまうだろう。

抑モ我造家学ハ工部ノ部内ニ入ル事ヲ得ルトイヘドモ尋常ノ工学ト大ニ異ル所アリ、同ジキ所ハ物理ヲ云フナリ、異ル所ハ美術ヲ云フナリ、夫レ美術ナル物ハ天地万有ノ形象ヲ察シ其神ト質トヲ想像模写シ且之ヲ奏合錯綜シ千状万態未タ曽テ有サル新奇妙々ノ形状ヲ現出スルノ術ニシテ…河合浩蔵「美術ノ説」*6

*1:『日本近代美術論争史』求竜堂、1981年、p.7

*2:これら博覧会的な日本的価値の検証は、たとえば吉見俊哉『博覧会の政治学中公新書、1992年などに簡便にまとめられている。

*3: 二代目清水喜助は、現在の日本におけるゼネコンの最大手の一つである清水建設の実質的な創始者として知られている。

*4:大蔵省『工部省沿革報告』、明治21年、日本建築学会編『近代日本建築学発達史』丸善、昭和47年より引用、p.1546。以後KKHと略記する。

*5:当時は一般的には「造家」と言う言葉が主に用いられていた。これが「建築」という言葉にとってかわるのは明治27年伊東忠太による改名論以降である。

*6:『建築雑誌』21号、明治21年9月、合本p.152。この「美術ノ説」については、明治期における典型的な建築論のモデルとして、詳細な検討を必要とするだろう。なぜなら美術の本質を、フェノロサの『美術真説』を援用した「神ト質トヲ合テ特異高尚無二ノ人為物」と結び一元的な把握をめざしながら、ただし「建築ハ外部ヲ以テ衣裳トシ内部ヲ以テ精神トス」という異なった二元論をも包摂しようとするからである。それらがひきおこす矛盾にこそ、「明治」的方法の出発点があると考えられる。