本居的布置の制度的実体化

もっとも目立つものは佐野利器を主峰とする山脈。構造派と呼ぶにはあまりにもその山容は広い。大正八年公布の『都市計画法』『市街地建築物法』をテコとし、一二年の関東大震災を勢力展開の絶好の機会としてフルに利用した佐野の勢力は、その本拠地の東京大学をはじめ日本大学建築学会などのアカデミィ、東京市や帝都復興院、あるいは警視庁などの建築行政機構などに幅広い隆起をもって、一大山脈を形成している。

と、村松貞次郎は述べている*1。佐野が直感的に天才であろうと思われるのは彼のやらんとしたことが、日本における、建築のみならず様々な分野での近代化政策のかなめにすべからくゆきつくからである。
と同時にそれは本居的「内部」を固定化させる、不可視の制度的な実体化ともいえる。この時近代「日本国」建築は、視えざる建築を成立させた。

佐野の制度への眼差しは大正8(1919)年に制定された日本初の総合的な建築法である「市街地建築物法」と「都市計画法」に始まる。建築物に関する法令は、明治時代を通じてきわめて貧弱で、当時は規則といっても人の集まる特殊建築―劇場、旅館、寄席など―に対する構造面での規制、及び一般建築物に対する屋上制限程度のものであった*2
佐野によれば*3、大正5年頃、警視総監に「建築警察の必要性をとき、技師をおくよう進言した」ところ賛成が得られたので、佐野以下3人で原案を1年間無報酬で審議し、部分的に警視庁令の下に発令されたという。これが「市街地建築物法」であり、また「都市計画法」は、関西建築協会の会長であった片岡安の提言にもとづき、当時佐野が主催していた都市研究会と副会長をつとめていた建築学会の3会共同で2法制定につき、各省大臣をぐるぐる説き回ったそうである。都市計画法は9年1月から、市街地建築物法は12月から6大都市に適用された。まずここに佐野の都市への言及は制度となって具体化した。

その3年後の大正12年9月1日、東京周辺を大地震が襲った。昼食を始めるときだった佐野は、すぐに安政地震程度と見切りをつけた。人力車を飛ばして、宮内省へ向かい、「半紙の上に鉛筆でスケッチしたのが基で1戸4坪ほどの長屋の青写真をつくり、地図の上で空き地を捜し(主として公園だった)坪数を拾い、何戸出来るかを記入して、市府の建築課長を呼び割当をし、主な請負人を集め…昼夜兼業でやれと命令し、檜を使えば檜の代金を支払うと言い切った」。その行動が認められた佐野は、当時の東京市長であった後藤新平の立案で設立された帝都復興院の理事に命ぜられ、建築局長となる。
復興院が政治的策略のために縮小されてゆくなか、辞職した佐野は、13年3月、頼まれて再び東京市建築局長となる。日本の都市計画史上、転回点を迎えたとされる区画整理は、佐野の直接の仕事ではなっかたが、「一番大切なことと思い、啓蒙運動に一生懸命努力した」。彼は急務の課題であった学校建設に際しては、教育局側の反対を押し切って水洗便所や暖房を採用し、仕方がないから不同意のまま、どんどん設計を進めたので紛糾を起こした。また畳敷の作法室にも反対し、工事中のある学校に作法室ができているのを知った彼は、現場監督に「至急壊してしまえ、後は自分が責任をとるから」と命じさせて壊してしまったという。
昭和4年には工学色の強い東京高等工業高校を運動の結果、東京工業大学として昇格させたり、同年にはそこの教授職を退官して、「土建屋的なものから立派な事業に向上させたい」と、当時合資会社になったばかりの清水組(後の清水建設)の副社長に就任した。
佐野副社長は、まず工事部の機構を根本的に改めた。即ちそれまで第1部から第5部に分かれていた複数性の工事部を一本にまとめて単独の工事部長にすべての建築工事を統括させるとともに、従来の第6部を土木部と改称した。また同時に工事部から営業関係業務を分離して営業部を新設した。工事部がそれぞれ独立的に運営されているのを改め一人の部長の下で有機的に管理していこうというのが狙いであった*4
稲垣は、この時期(昭和初期)の主な建築生産における変化を、都市建築の高層化が進み、各種の建築に鉄筋コンクリートが広く実用化されたことをあげている*5。それは佐野ら「構造派」の編集による大正13年の「コンクリート工事標準仕様書」、翌年の「鉄筋工事仕様書」、昭和4年の両者を一括した「鉄筋コンクリート工事標準仕様書」という一連の工事仕様書の整備によって可能になったといえる。第2次大戦前の不燃建築物の大部分がこの時期に建てられるのである。
そしていくつかの恐慌をくぐり抜けながら日本の工業全般は企業の集中、産業合理化の進展などによる大資本の制覇が確立する。佐野の清水で行った改革は丁度このような社会状況とパラレルである。やがて昭和6年満州侵略の開始とともに、日本経済は軍事的に再編され、軍需生産による莫大な利益をあげ、急速に上昇の道をたどることになる。つまり昭和初期に日本の資本主義体制は完成し、佐野の行動は一元的な資本体制下に最も合致する建築の在り方をしめしたのだった。
こうした中で人員整理問題から7年4月には砂町工場で一ヶ月にわたり労働争議がおこった。労働運動の高揚したこの時期、元請けと下請けという請負業の特殊な労使関係とは異質の労使問題に遭遇した関係者たちの戸惑いも、争議を引き起こした原因の一つであったと思われる。*6
同年の昭和7年7月、退社を決めた佐野利器は、念願の日本初の体系的な建築学書である、『高等建築学』全26巻*7の編集に着手した。

このような佐野の軌跡は、現在の僕たちの前にある制度そのものではないだろうか。もはや僕たちは建築の制度を、すでにあったものとして受けいれている。その近代「日本国」建築のつくりあげた制度について稲垣は次のように言う。例えば「建築物法」は「法規としての主眼は、都市の無統制の招くさまざまの障害や不安を取り除き、未然に防止するための最小限の規定をほどこすことにおかれていた」*8。「都市計画法」については「統制法としての性格は一貫しており、より積極的に健全な都市と建築を誘導しようとする規定はここでは認められない」*9。また区画整理に関して「建築線を設けて建物の位置を制限もしくは禁止する規定は、総じて近代の都市計画におけるもっとも初期的な消極的な規定だった」*10とする。
これらの特質は特定の論理としての外観を持たないということで一貫している。そこに本居的「内部」との共通した匂いをかんじとるのは突飛なことなのだろうか。
長谷川堯は『建築の現在』*11で、佐野の論文をひきあいに出して、彼の合理的精神の「柔らかさ」を次のように評している。

佐野は合理主義を「単に機械的にのみ解すること」の愚劣さを繰返し指摘して、「入り易くして達することの甚だ難い、実に前途多難にして、又洋々たるやうなもの」だとうまい表現で説明したが、先駆者としての彼の忠言にもかかわらず、昭和の建築は、まさにそのような「機械的」な建築世界を実現した。「見渡す限り四角い壁に四角い窓しかも壁面が通ったり、軒の高さがそろったり」の建築群が日常的な世界として今私達のまわりにザラにあるではないか。例えば戦後建築の一つのモニュメントというべき「団地」の光景を思い出せばいい。*12

つまり長谷川が言いたいのは佐野の「大人らしさ」である。確かに一見では、モダニズム派の浅はかさばかりが目につく。しかしいま、僕は別の読み方もできる。昭和期の戦時体制下にあって、徹底的に弾圧されたのは何も共産党だけではなかった。2.26事件をひくまでもなく急進的な右翼、あるいは新興宗教大本教団もまた、治安維持法によって叩きつぶされたのはなぜなのだろうか。それは彼らが「構築の意志」をもったからに外ならない。
それらは国学的『自然』にとっては「外部」である。それらは「ありのまま」つまり「大人」の見解からすれば、極端な「作為」として排斥されざるをえないのである。昭和初期より隆盛しはじめるモダニズム運動もまたスケールは小さいが同様の扱いをされている*13。昭和初期に現れた彼らもまた、その理論とは裏腹に、佐野ら「構造派」の「実用としてのモダニズム」から「美術、贅事」という作為性の中に放り込まれてしまう。「構造」はどのような形―「外部」―にも対応できる「内部」であり、それを表現として限定すること自体が矛盾でしかないばかりか、かえって「内部」体系を可視化させてしまう恐れがある。だからなにも無理に表現することはないのである。そのような態度は「やわらか」で「自由」に見えながら、新しさを抹殺するものとして働く。
「団地」の光景はモダニズムがつくりだしたものではない。「日本」的特殊性がうみだすことのできた一つのカタチに過ぎない。きけば日本のゼネコンのモットーはどんなカタチにも応じられるということらしい。しかしそのような「自由」こそが技術の可能性を逆に殺すこともある。技術は「実用技術」という、近代日本資本主義をおし上げてきた、極度に発達した生産システムの中に定位されるだけではないだろうか。
また長谷川は、佐野の合理的精神について、後のモダニズム運動とくらべてその展開の当然さを次のように言う。

結局合理主義と合理主義の戦いは、どちらかの側が、その歴史的時点でよりリアリティを持ち、そっちのほうが弱い他方を粉砕するのが常である。昭和初期の時点において、佐野が実践してきたような国家主義をその裏面とする合理主義が、ひよわな国際主義を背景とする合理主義に負けるわけがなかったし、そのことは「新興建築家連盟」の当事者たちも重々承知の上での行動であったろう。*14
…あるいは彼が震災後の東京市建築局長時代、一○○件以上におよぶ鉄筋コンクリートによる学校を建てる上で、教育局側の反対を押し切って水洗便所や暖房を採用し、またもっと面白いのは、畳敷きの作法室を是非つくるようにという学校側の要求を、佐野ただひとり頑として聞き入れず、…一切畳じきの部屋をつくることを許さなかったというエピソードがある。…子供に〈未来〉を託す気持ちの佐野のひそかなインターナショナリズムへの配慮と準備を過小評価するわけには行かない。*15

前半は的を射ているが、後半は外している。作法室や尺貫に対してノスタルジーを抱く国家主義者が、超えるべき存在としてそれほど重要とはおもわれないからである。長谷川は次の点を見落としている。「佐野のひそかなインターナショナリズム」こそが本居的「内部」を実質的に強化させる役目を果たしたものであるということ。「帝冠様式」はかわいい、問題は長谷川自身でさえも無意識にとりこまれてしまっている空気のような「内部」なのだ。長谷川は佐野のなしえた近代的な作業を最大限に評価しながら、佐野が切り捨てていった「贅事」の現在的な重要性を述べる。

むしろここで私が強調したいのは、建築は、「贅事」と見えるさまざまな企ての中において、建築の設計者と建築の利用者の間をつなぐ何かが探られ、たぐり寄せられるのだ、という点である。…私はこの数年来、設計者が建築を体現する能力、あるいは建築の身体の可能性といった呼び方で説明している。*16

長谷川は「用VS美」の二元論の外にある、新しい建築のてだてを求めようとはしているが、残念ながらここでの表現は有効ではない。建築の可能性は「贅事」ではないからである。逆に僕はこの言説に、本居的布置が完成させた「用vs美」の構造の強度を感じずにはおかない。
佐野は「内部」を、建築を規制する制度として表現することによって、いわば建築の外にいることによって、空気のような「当然さ」にまでおしあげたといえる。その「空気」は長谷川が『建築の現在』を執筆した昭和50年前後にまで、確実に存在していたのだ。「当然さ」の仮象はなお保持されていたということができる、
「空気」は現れたと同時に消えた、のである。そしてそれは当然ではない。

*1:村松貞次郎『日本建築家山脈』(長谷川尭『建築の現在』SD選書97、鹿島出版会、昭和50年より再引用、p.20

*2:前掲の稲垣栄三『日本の近代建築―その成立過程』(下)p.215を参照のこと。

*3:これより以下の佐野自身の言説は『佐野博士追想録』同博士追想編集委員会発行、昭和32年、に所收の自伝、p.19~32を参照のこと

*4:清水建設180年史』清水建設株式会社発行、1983年、p.53

*5:前掲の『日本の近代建築―その成立過程』(下)、p.261

*6:前掲の『清水建設180年史』引用部分に同じ、p.53

*7:前掲の佐野の自伝によれば、昭和7年から10年まで、常磐書房から発行された。

*8:前掲の『日本の近代建築―その成立過程』(下)、p.216

*9:前掲に同じ、p.216

*10:前掲に同じ、p.250

*11:SD選書97、鹿島出版会、昭和50年

*12:前掲に同じ、p.45

*13:たとえばモダニストたちの大同団結であった「新興建築家聯盟」の1930年10月20日の結成と、新聞などの妨害宣伝による同年12月1日の解散を想起せよ。

*14:前掲の『建築の現在』、p.47

*15:前掲に同じ、p.48

*16:前掲に同じ、p.38