以前僕がまだ大学に入りたてで、建築のケの字も知らなかったころ、とある銀座の名画座で、「24時間の情事」*1というフランス映画を見た。

岡田英次ふんする日本青年と、大戦の傷跡を背負ったフランス人女性との、戦後のヒロシマを舞台にしたメロ・ドラマなのだが、僕はこの薄暗い映画館の中で、建築というものについての深い学習をするとは思ってもみなかった。
ちょうど、僕が大学に入った頃(1982年)、ポスト・モダニズムの動きが潮流として定着しつつあった。僕はそんな建築界の運動など、全く眼中になく、というか興味すらも持ちあわせない劣等生だった。ただ、近代建築に対する壊疑だけは自分が育ってきたそれまでの20年間に、身をもって体験してきたようなところだけがあったから、しいていえば「建築」と名のつくもの全般に対する一定の距離をとる姿勢がそんな新しい運動を知ることすらも、拒んでいたような気がする。重々しい打ち放しのコンクリートなど、何をかいわんやという感じだったのである。

映画の話に戻ろう。冒頭のシーン、初めての情事を送った後の広島の朝。青年がバルコニーへと足を向ける。そこから見える広島の風景は未だ焼け野原のままといったような状況で、そのほこりっぽい風景はあたかも地平線まで続いていて、ポツポツと簡易住宅の落とす影が夏の強い日差しによって、一層強調されて見える。すると突然、青年を映していたカメラがパンして、彼らのホテルを俯瞰しながら後方に見える、巨大な広場に屹立している一つの建築を映しだした。
荒々しい太い柱によって保たれたその意志の塊は、焼け野原の中で一際日の光にうたれているかのようだった。その乱暴なまでにシンプルなコンクリートの打ち放しは、荒土と化している大地の上でその何もかもが必然であるような気さえしたのである。
僕はそれが丁度黒沢明の戦後の映画に出てくるような、泥沼の中で豪放に生きぬいていくような人間像と重なって、戦後の精神をかいま見たような気がしていたのかもしれない。つまりこのシーンの強烈な印象は、忽然と廃虚に現れた闇屋の主人と建築とが、向いた方向は全然逆であったけれども、その初源において同じ大地に立っていたことを暗喩していたからのような気がする。
何はともあれ、僕は建築と握手できるチャンスを持ったのだった。主人公のフランス女もつぶやいた。
"Hiroshima Mon Amour"、そしてピース、広島平和会館よ。

僕はこの章をもって一応の決着をつけたいのだ。近代「日本国」建築において、建築家丹下健三ほどその評価がまちまちである建築家も珍しいような気がする。それは丹下に正当的な検証が未だ加えられていない事実に起因している。おそらく彼はつきるところ、何トナク嫌われてはいるが、その問題点を明確に提出される事なく、何トナクちょっとだけ引退している観がある*1。またそれは60年代に近代「日本国」建築を席捲したメタボリズム一派に対する現在の評価も同様といえるだろう。
それは彼らの持つ方法論の強度を証明しているようにもとれる。その方法論が問われずじまいできたことはもったいないような気もするし、逆に今後その構想力にシッペがえしをもらうなんてことにもなりかねない。この際僕たちは丹下健三たちと握手をすべきなのだ。つまり僕たちと彼らとの何らかの連続点をみすえないことには、のり越えはありえないから。そんな意気込みで、アウトラインをちょっとだけ引いてみることにしよう。

*1:この原稿執筆時期は1988年度である。