東京計画1960まで

丹下はグレートだった。そう正直にいったん、認めてしまっていい。おそらく彼だけが特有の方法論とたぐいマレなる構想力をもって戦後の混乱期を一点のよどみもなく突き進むことができた。もちろん彼の「天才」指向を批判することは正しいし、たやすい。とはいえ、それゆえに彼だけが持ちえた可能性の場を過小評価することが積極的とはいえない。
例えば、戦後10年間ほどの建築に関する雑誌をざっと眺めればわかることだが、彼の作品が発表されるごとに明らかに、建築総体の質的な転移がおこっている。彼の新しさは、建築界の空気をも変え、その方法論的強度はその明快さをともなって、たちまちに様式的なフォロワーをうんでいる。

昭和20年代は、簡単にいってモダニズム派とマルキシズム建築運動の協調によって多くの実践的活動がみられたわけだが、後にモスクワ大学の様式主義*1によって噴出するいわゆる「リアリズム・民衆」論争は、それらの運動の論理的破綻の端緒を生んだような気がする。
昭和31年8月、雑誌『建築文化』119号誌上で発表された特集、「建築設計家として民衆をどう把握するか」もそのような一連のながれに対する試行であった。ここでは池辺陽西山夘三丹下健三といった当時の論客たちが意見を述べているが、マルキシズム建築運動の理論的主導者であった西山は「民衆」と「建築家」の関係についてこう言及している。

今日、良心的な建築家は、自分の作品について民衆から、たとえば否定的な批判であっても、なにか、積極的な関心と反応の示されることをねがっている。だが深いなやみは、実は民衆が建築家の努力に対してほとんど反応しないということである。「建築を国民に結びつけよう」

西山は、建築家のスター主義がはびこることによって、建築家が「民衆」から離反してゆくことを嘆いているが、とはいえ西山自身、両者がどのような協調関係を結び得るのか、その方法を語らない。当時、先鋭的なマルキシズム建築運動家であるほど、建築家としてのプロフェッションに悩むという構図があったとみてよい。なぜなら彼らの階級理念として、「建築家」は「民衆」と同一であるという、意固地なまでの心情があった。彼らにとって「民衆」は奉仕すべき対象であるのだが、西山のいうとおり、彼らの行く先を決定するであろうはずの当の「民衆」からは何のリアクションもないのである。つまり「民衆」は彼らが仮想した観念的存在なのだから、そう都合よく口をひらきはしない。西山は「民衆」という対象の実感を、朝鮮戦争の軍需景気による経済回復、それによる空前の第一次ビル・ブームと反比例するように、失いつつある。意地悪な言い方をすれば、西山の言説は「建築家」の構想力を、仮想された形而上的な存在―民衆―にあけわたしてしまった時にあらわれる、方法論の頼りなさを如実にしめしている。

*1:ロシア革命後、ソヴィエトではいわゆるロシア・アヴァンギャルドが建築における指導的役割をはたした時期があったが、スターリニズムが台頭するにつれそれに代わって「より民衆に近いものを」というテーゼの中で、「反動」的でもある帝政時代の様式を取り入れようとする潮流が起こった。モスクワ大学はその一例であり、ロシア一の総合大学という権威のシンボルとしてその様式が採用されたことに、世界のあちらこちらに生息していた「モダニスト」たちに賛否両論を巻き起こした。その問題の根幹は、打倒すべき体制の文化が、身を捧げるべき「民衆」の文化に直結してしまった「理論」上記妙な事実にある。