"ノリのような建築" 東京計画1960以降

従来からすぐれた視点を提出している評論家松山巌は、丹下健三についていくつかのコメントを残している。彼もまた、丹下に憑かれた一人である。1987年に執筆された小論「ノリのような建築」*1は、きわめて興味ぶかい視点を提供している。
松山は、「ポスト・モダニズムに出口はあるか」と銘うたれた座談会*2中に、丹下の発した次の一節にいたく興味をひかれている。

私が情報化社会を意識し始めたころ、1960年ごろ、すでに実感として感じたのは、いままでさらっとしていた空間が、大変ねばっこくて、ノリのような感じに見えてきたんですよ。やや比喩的な言い方ですけれども、で、いままでは空間というのは物を引き裂くものだと思っていたら、空間というのはノリのようにひっつけるものだという実感が強くなってきましてね。

松山は、それ以降の丹下自身が何かその対象をとらえきれていないもどかしさを感じつつ「ノリのような建築とは、丹下が新しい表現をまだそこに見い出せぬように、というよりも表現のない建築ではあるまいか。目に見えぬ政治や資本力によって決定されてしまう建築ではあるまいか」と結論づける。
その見解に書き添えなければならないことがあるとすれば、「ノリのような建築」が丹下によってつくりだされたものなのではなく、丹下が現実認識の過程で発見した、本居的モダニズムの本質にほかならないことだ。
「ノリのような建築」とは、つまり構造派の獲得した「完結しない」「無限にのばすことのできる」ラーメン軸組剛節構造であり、以前から丹下自身はそれを最大の敵とみなしていた。もし丹下に「転向」があったとすれば、それは、そのモヤモヤとした、すっきりしない空間体系に宣戦布告し、果敢に表現を求め続けたあげくの、方法論的敗北の地平に待ちかまえていたはずである。
「ふりかえってみると、私の考え方やその対象とするところは、大きく1960年前後を境にして変わってきているように思える。」と丹下は、論文を年代的にまとめた著作の序文で回想している *3。それは大局的にみれば、彼がいわゆる「アーバン・デザイン」に傾倒しはじめた時期でもあった。

*1:『建築作家の時代』リブロ・ポート発行、p.204

*2:『新建築』1983年9月号に所収

*3:KT、p.3