モデュロールとコア・システム

丹下が、近代「日本国」建築史上において、きわめて珍しいシステム指向の持ち主であることは述べた。そうであるならば、先のような言説も設計方法論という具体的なレヴェルで展開されねばならない。ここではその例として二つのシステムをひきあいに、丹下がそれをどう意味づけていたのかを探ってみることにしよう。

モデュロール…建築家の存在理由と無限定空間批判
通常「日本建築」の特質を語ろうとするとき、それは木造特有の架構について述べねばならなくなる。その柱梁の単純な構成によって区切られたグリッドパターンは―抽象的なレヴェルにおいては―反復させ、つなげることによって限りのない空間を作ることができる方法としてとらえられている。その特質を「無限定空間」*1命名したのは丹下であるとされている。とはいえ、彼自身は「無限定空間」に対して、端緒から一定の距離をおいていた。
設計手法としてのモデュロールとは、全体の空間あるいは空間を構成する建築の各要素のあいだに、関連づけられた秩序体系をもたせるために設定された数系列の尺度である。日本において、早い時期にモデュロールを用いた構成手法―モデュラー・コーディネーション―を採用し、その研究を始めたのが丹下、あるいはそのチームであった。丹下たちにあっては、そのシステムの基本は当初黄金比に求められていた。
しかしまた、広義の意味にあっては、当然同一の基準数値で空間に平面的、あるいは立体的に反復してゆくシステム―つまり無限定空間、あるいは均質空間をつくりだす前提―もモデュラー・コーディネーションに入りえる。丹下はそのようなグリッド・プランニングと彼の追求する黄金比のコーディネーションとの関係、あるいはそれらの差異を次のように説明する。

…しかしこうした秩序というものは、たとえそこに規格性あるいは均一性―ホモジェニティ―を一方で要求するものではあるが、それと同時にそれは、自由と変化、あるいは異質性―ヘテロジニティ―を伴っていなくてはならない。「モデュラー・コーディネーション」1955年*2

丹下は均質空間のもつフレキシビリティーの乱用に注意をうながしているといってよい。なぜなら同一数値による空間構成の方法にあっては最終的に設計者の構想力そのものをも捨象するからである。

…機能は確かに変化する。ここでこの変化するという性格をとらえて空間はその機能の変化に対応してゆかねばならないとする。この点では正しいのだが、ひたすら変化するという点のみに着目して、いわば無特定の機能に対応する空間を創ることを目標とする、…そのためしばしば空間が機能から遊離して独走してしまった。建築が機能から出発するのではなくある特定の性格を有する空間の追求に終始しはじめる。「機能と空間の典型的対応」1956年*3

その「ある特定の性格を有する空間」を丹下は次のように表現する。

…空間を完全にフレキシブルに扱い、いかなる変化にも対応できるよう均質化してゆく方向は、一面ではパチンコ屋が明日には喫茶店になる必要性が出てくるといった、全く不安定な自由競争を基盤にした現在の資本主義社会が、建築に要請する基本的な法則性でもある。(前掲に同じ)*4

丹下はこの文脈で「均質空間」を、現実へ妥協した形式主義にすぎないと批判する。それは建築家の社会的主導性を主張する丹下にとって、まさに忌み嫌うべき建築様式であった。逆に黄金比によるモデュロールは、いわば丹下自身であり、建築家の存在理由でもあった。彼はそれぞれの建築はその条件に対応した「個別性」をもたねばならないとする。建築が「個別性」を持たなければ存在する意味はなく、その「個別性」の中から、社会をつき動かしてゆくような典型を構想力によって創りあげることこそが必要であるとする。なかなか苦しい説明だが、ここでも彼は「構想力―天才の御技」をもちだすことによって、「無限定空間」のニヒリズムに対していたのである。初期の丹下において特にコンクリートをもちいた一連の作品は、以上のような「均質化してゆく空間」という現実認識と、「黄金比によるモデュロール」という構想力の相克*5という点において、評価されるべきであるように思える。
ただいったい「個別性」とは何なのか?存在する建物には建設者が当然対応する。たとえば大型組織事務所の成果物が「同じようなもの」に見えても、世の中のすべての事柄は一回性の中で展開するとみれば、「個別性」は無数に存在してしまう。そこに「構想力=天才の力」は介在する必要がないし、そもそも無意味である。「構想力」をあくまでも「天才―丹下―に固有の力」の中にひきいれざるをえない認識においてはじめて「個別性」は存在しえるだろう、彼のいう「個別性」とはつきるところ「丹下という唯独性」という地平においてはじめて論的な根拠を持っている。「天才-構想力-個別性」と連なる文脈は丹下にとっての「内部」にとどまり続け、おそらくそこから出ることはない。だから「丹下」以外はすべて「外部」にならざるをえない。『MICHELANGELO頌』から始まる天才論はここまでつらぬかれている。
しかしその明晰なイメージは、丹下が「個別性としての建築」の「外部」を意識しはじめたときに崩れはじめる。「丹下にとっての外部」、彼はそれを「都市」と呼んだ。

■コア・システム…手法がフレキシビリティに相対化されるとき
「個別性としての建築」の「外部」、つまり「都市」に彼が着目し始めたのは、実質的には東京都庁舎の競技設計の昭和27年当時であったといえる。
「都市」への意識は、例えば「外部機能vs内部機能」という対立で表され、「広場としてのピロティ」、「中2階のコンコース」という建築的要素がその「外部機能」の範例として採用されたが、さしあたりここで注目したいのはコア・システムである。
一般の事務所建築や工場建築などには、机の配列、工場機械やそれに伴う配線配管などから要求される、グリッド分割のための基準寸法が必要である。そのような整数分割の可能性のない「黄金比によるモデュロール」の取り扱いに悩んでいた丹下は、東京都庁舎においてその現実認識を克服するため、設計方法を大幅に変更する。コア・システムは丹下が、黄金比に象徴される建築の「個別性」を、限界として認識しはじめたときに採用されたシステムである。「空間の秩序と自由―コア・システム」(1955年)*6の説明を要約すると、まず丹下は高層事務所建築―つまりオフィス・ビル―を、「一次的要素」である執務スペースと「二次的要素」であるサービス部分に分割する。その目的は機能的部分を代表する「二次的」サービス部分をコンパクトに集約することによって、「一次的要素」から排除し、執務スペースを「自由にして均一な空間として確保する」ことであった。つまり、それは以前の統一という設計方法の命題から、並存の姿勢へと彼の構想力を一歩後退させたことを意味している。

たとえば、フレキシビリティを獲得することは、執務機能の典型を可能にする一つの解決である。オフィスの執務空間はその範囲内では極度のフレキシビリティを要求している。…この事実を私たちは、機能の本質的な発展が、そのにない手の社会的立場によって規定されると考えたのである。「機能と空間の典型的対応」1956年*7

コア・システムの、均質空間の存在を許容する利点は、丹下のめざしたように高層建築における一つの典型を提出したが、しかし「均質空間」こそ、丹下が忌み嫌った様式であったことに変わりはない。彼はその代わりに、コア・システムによって、初めて建築がその「個別性」の限界から脱却して、「都市と建築とを有機的に秩序づけてゆくための一つの手がかり」となることを強調したが、逆にいえば、彼の構想力が「コア」という関係性を排除されたサービス部分に集中、隔離されることによって、丹下自身が逆に対象化されうる方法論をみずからきり開いてしまったこともあわせて指摘できるだろう。
コア・システムは以上のように両刃の剣であった。しかし同時にまた、コア・システムのもう一つの目的は、耐震構造*8による本居的な専制が構想力にもたらす束縛―余りにも日本的な状況―を回避することであった。

…日本の構造技術者や構造学者は、構造的な意味からだけで、ピロティを否定し、また開放的な外壁処理に反対していた。また地震国の日本では、こうした構造家の主張は、ほとんど絶対的であった。
私達の課題は、これに挑戦することであった。ピロティをもち、しかし上部の開口部も開放的であり、しかも耐震的である構造を探求するということであった。
「空間の秩序と自由―コア・システム」1955年*9

確かに丹下はその目的を達成した。そして同時に、勝利を丹下にもたらしたコア・システムは、逆に本居的モダニズム御用達のグリッド状のスーパー・ブロックを、見返りとして並存させることになった。

*1:建築家広司が批判的に言及する「均質空間」も、同じような意味で語られることが多い。

*2:NK、p.228

*3:NK、p.239

*4:NK、p.240

*5:彼は当時の言説において、それを「統一」と表現している。

*6:NK、p.221~227

*7:NK、p.242、初出データによるとこれらは1954~56年までの雑誌『新建築』に掲載した論文をまとめたもの。

*8:第2章で詳述

*9:NK、p.224、225