「日本的なるもの」の発見あるいは発明

近代「日本国」建築の起源において、課せられたナショナリズム―「外部―内部」的認識―は、もう一つの克服すべき問題を提起した。それは巷にいう「日本的なるもの」、その追求というテーマである。
一般的にそれは、様式に「本邦趣味」を加えることを明記した、明治43(1910)年の「議院建築準備委員会議案」の周辺をはじめとして、昭和前期に流行するコンクリート製のビルに不釣り合いな瓦屋根を頂いた「帝冠様式」が主に従来の議論の焦点になっている。しかしそのテーマは近代「日本国」建築総体に関する大きな問題であり、建築論という、より観念的な分野ではごく初期よりあらわれていた。
それは前述の、「国家」の洋風政策の制度的措定である工部大学校(帝国大学造家学科)で教育を受けた日本人たち、つまり大工ではなく建築家による洋風建築設計の段階に入った、明治20年代よりはじまることが指摘されている*1
日本建築学会は、建築に関連する諸分野が結集した日本の建築界を代表する学会として知られている。日本建築学会の前身である造家学会が、開化派の井上馨の後輩にあたる官僚、青木周蔵を会長に、辰野をはじめとする建築家エリートたちによって結成されたのが明治19(1886)年。その会誌である『建築雑誌』が、翌年1月より発行され、建築家たちの論的展開を期待できる重要な媒体となった。
そして「美術」をめぐる様々な解釈は、多数の洋風建築のための実利的な報告をのぞいて、『建築雑誌』における建築論の総体のテーマといえるほど量的には豊富だが、同時にその最初期より「日本建築」に関してのレポートがポツポツと掲載され始めている。
昭和11年4月に、学会創立50周年を記念して発行された『建築雑誌総目録』において、「I.歴史2.日本」の項目に収録されている「日本建築」についての記事は、おおまかにいえば創刊当初から日露戦争前後の明治後期までにむしろ集中している。試しに各年ごとに、それらの数をまとめてみると、次のグラフのようになる。

図1-3 『建築雑誌』における「日本建築」記事の変遷。(『建築雑誌総目録』建築学會発行、昭和一一年より作成。なお、雑誌に添付された図面類も、総目録に掲載されている場合は、論文記事同様に扱った。)


また特に、『建築雑誌』初期5年間の代表的な「日本建築」に関係する記事について言及すれば、その行間には、国中の建物を能うかぎりまとめてしまおうとしたかのようなせわしなさがつまっている。内容、所見とも乱雑といっていいほど、多岐にわたっていることをその特徴にあげてもよいだろう。
例えば、平内家に伝わる近世木割書「匠明」を、秘伝と言われているが今の世になってはその益もないので、ここに紹介して専門家諸氏に見てもらおうとその極意を伝えるもの*2
茶席建築は「日本美術」の海外輸出に一役買うところがあるから、これを奨励し、一般化させるべきだ、と言う貿易美術論*3
また、当時行われた紀年碑コンペに於ける「日本」的モチーフの雑多さ*4

図1-4 明治二二年『建築雑誌』上に初めて登場したコンペティションである「紀年碑コンペ」における「日本」的モチーフ(建築雑誌No.32,33,34より)


そして、特記すべきはこの後もつづくことになる宮内省内匠寮技手出身の木子清敬の一貫した「日本建築」レポートである*5。その題材は広い範囲にわたり、古書を資料にした考証的な手法による時代推測、その変遷など、綿密な資料とおそらく工匠出身の彼の立場によると思われる平板な解説は、今の目でみれば予想外にやわらかい印象を受ける。
木子清敬*6については稲垣栄三によって簡便に触れられているが、その記述は特に辰野金吾との関係について興味深い。彼によれば明治16(1883年)年イギリスから帰朝した辰野金吾は、留学中イギリス人の示唆をうけて、日本建築学の教育・研究を推進する必要を感じていた。工部大学校教授となった辰野は、22(89)年にいたって、木子清敬を講師として、日本建築について開講させた。木子はここで江戸時代の工匠の間で伝承されていた規矩術を講述し、26(93)年には、木子のほかに、社寺建築の研究を進めていた石井敬吉が助教授に就任し、ここに日本建築史の研究と教育に先鞭がつけられた。また『工学博士 辰野金吾傳』*7によれば、辰野は日本建築の講座を設けて、「学生をして西洋建築の傍ら日本建築を学ばしめ、又毎年夏期の休暇を利用して、古社寺建築を実測製図させてその研究を奨励し、…又新たに東洋建築研究の道を開き、屡々助教授及大学院生等を支那、印度、土耳古、等に留学若しくは出張させてその調査を遂行させ」たという。
確かに以前の論者が述べるように、ここに明治のおおらかな建築教育の一面をみてとってもよいし、「日本建築史」がその起源において明るい変革的な要素を持っていたことをしめしてもよい。ただ重要な点は、やはりこの場合辰野が「日本建築」の追求を志した契機が、西欧留学中にあったとよみとれる点である。明治に限らず近代以後の「日本人」が直接的な西欧世界との接触を持ったときにあらわれる、「日本的なるもの」への視座は、あるいは普遍的な事実にたかめられているほど、共通なできごととしてある。
ナショナリズム―「外部―内部」的認識―の芽生えは、不可避的に「内部」をつくりだすことによって保証されることになる。当時の「日本建築」の追及を「外部―内部」的認識の環境のもとに進められたものとみるとき、そこに特徴的な内容の多様性は、おそらくナショナリズムという先行した論理的布置に、その空間を埋めるかたちで行われた雑多な学習の累積という意味を持っている。おそらく「日本建築」という枠組みの中で、神社やら、寺やら、茶室やら、城郭など、ありとあらゆる古来の建築に総合的な解釈を試みたのは、この時期に特徴的な突発行為であったのではないか。

明治25(1892)年、建築家横河民輔の講演「東西美術孰れが勝れる」に対し、木子清敬直系であり、帝大を卒業したばかりの「日本建築」史家、伊東忠太*8は、ある先行研究者の言葉を借りれば、先への論評として「横川の理解の不確実さを鋭く」つき、「そしてさらに東西美術の差は優劣の差ではなく、価値体系の違いにあることを」説いた*9。その論旨は後の彼の視野の広さをものがたっているようにもうけとれる。たとえば、彼においてナショナリズム―「外部―内部」的認識―は、当時絶対的な強さを有していたであろう西洋的価値基準の相対化をうながし、日本建築の自律的価値、ひいてはひろく東洋諸国における「建築」のありようを追求する可能性をもたせた、というまとめ方もできるだろう。
しかし今はこれらを次のように構造的に把握することが必要であろうと思われる。「日本的なるもの」の検討にあたって、当論文の前提となっているナショナリズム―「外部―内部」的認識―の構造から、その再変換を試みてみたいのだ。

  1. 「建築」の起源…「建築」が明治初期における「洋風政策(=対外政策)」に伴ったものならば、「建築(家)」はまず制度として設定された。
  2. 「建築」に関わらず、およそ国家概念の上に立脚した観念には、不可避的に「自国的なるもの」を見いだそうとする構造が存在すること。
  3. しかしそのような「外部」によってもたらされた「内部」への、転倒投影させられた意識は、論的構造が先行して決定されているという意味で、アプリオリにその観念を裏打ちしている「実体」を有するものではない。ここでの「観念」と、指し示された「実体」との関係は恣意的にならざるをえない。
  4. よって「内部」を獲得しようとする意識は、一見、現前性を見せながらも、実はその「内部」は「発見」においてしか獲得しえない。ここにおいて、失われた過去への視座はその起源にあっては主体的につくらざるをえない。
  5. その「発見」としての「日本的なるもの」という、先行する「外部―内部」的認識よりひきおこされる手法は、建築論総体の領域の拡大と質的な転移をもたらす「新しさ」を有していたと同時に、前提の強固な枠組みを「実体」として保証しようとする運動を伴うために、その新しく蓄積された学習体系が仮想された「内部」の中に回収されてしまうという陥穽をも持ちあわせていることになる。

ところがこうして再度振り返ってみるとき、現在においても超えられるべき対象として残存している「日本的なるもの」の根幹は、依然としてその姿を隠ぺいされているように思えてならない。より重大な問題がいまだ捕獲されていないもどかしさを感じるのだ。僕たちは先に規定したナショナリズムの構造をさらに検討しなくてはならないだろう。

図1-5 世界地図屏風(部分)、人物図左下に日本人男女が描かれている、他律的に規定された相対的な日本人像。ここにおいて日本はあくまでもローカルな一体系にすぎない。重文 兵庫 神戸市立南蛮美術館所蔵。


■エキゾチシズムの限界と「自律」するナショナリズムの発生
ここで「美術」という、エキゾチシズムを共同体間で売買するために作られた装置について、やや修正的に言及しなくてはならなくなる。美術―エキゾチシズムが、異なった共同体の持つ秩序を、交換可能な等価物に置き換えてゆくという運動を孕んでいるかぎり*10、またそれが西欧の植民地主義の只中から生成してきた近代を準備したシステムであるかぎり、「美術」としての「日本的なるもの」は観念的に自律したナショナリズムにはなりえない。エキゾチシズムにおける「差異」の認識―つまり交換を前提とした「日本」的、あるいは「西欧」的という価値は―ある等質性に置き換えられてこそ把握することができる。つまりそれら交換行為は、「異なった世界」を均質な空間にならしてゆこうとする方向性を持つからである*11。その場合の「固有性」という価値は他律的に決定される。つまりエキゾチシズムにおいて規定された「日本的なるもの」は、変換可能でさえあるローカルな体系として、貨幣流通を唯一の中心とする世界の幻想の部分として位置される。近代―資本主義社会―西欧世界が独占していた当時の植民地的「普遍」に言及する余地は残されていないのである。
以上のような意味で「美術」―エキゾチシズムは、均質性の幻想に加担するものである。
しかしエキゾチシズムの限界は、そのとき「自律」的なナショナリズム発生の場を準備する。ここまでで取り扱っていないナショナリズムの位相とは、まさに他律的にしか規定されない「日本」の状況をズラしてゆこうとする論理構造の中で獲得されるものである。それらは「国家」をなかだちにして初めて意識されるという理由でエキゾチシズムあるいは他律的な「外部―内部」的認識から出発するが、「自律」的に把握される過程で―アプリオリに「日本的なるもの」が存在すると思考する過程で―それらは隠蔽される。つまりは固有性の幻想に加担するものである。
前述の伊東忠太と横川民輔の論争の布置が、「東西美術孰れが勝れる」という、いわゆる「美術」論であったことに注目したい。それは、おのずと「日本建築(史)」における「日本的なるもの」の源泉が、「美術」という閉じられた領域がもたらした場を前提に、生じたものであったことを示している。つまり国内のさまざまな種類の建築を、「日本的なるもの」という冠で一元的論理に再構築してゆくには、以前のコンテクストとは異なる位相の手法を必要とした。その手法は「美術という出島」の中で獲得された、「西洋美学という外部」の視点なくしては、生まれべくもなかった。そして、その手法の持つ自由さは、その市場の中でしか生きることはできなかったのである。
奇妙なことに、「日本建築(史)」というナショナリスティックな学は、「美術」―「出島」―エキゾチシズムの枠内に回収されることによって、もっと別の「内部」体系に相対化されてしまう弱点を、後にさらけだしてしまう。では別の「内部」体系とは何か?
ここにおいて、それこそ固有の「日本」的状況の特質―「自律」的なナショナリズム―が現れてくるように思える。
より深く近代「日本国」建築学の発展過程をみていくために、近世における「日本国」固有の「もの」を獲得しようとした、国学の展開のありようを検討してゆきたいと思う。なぜなら対外意識に依拠して「自国」を見いだそうとした国学は、その特質の根幹を近代「日本国」建築と同様に、ナショナリズム―「外部―内部」的認識―を基底にした交通論として読解することができるからである。少しだけ昔に旅をしよう。国学の論理的変遷に近代「日本国」建築学の可能性と悲劇が既に語られているはずだから。

*1:例えば昭和47年発行の『近代日本建築学発達史』(略記号KKH)、丸善における、「建築論」「建築史学」の項目を担当した研究者たちには、そのような見方がすでに常識として定着しているようである。しかしそのことの重大さには、彼らは気づいていないようにも思える。

*2:正員新家孝正「日本建築法」33号、明治22年9月

*3:準員小川清次郎「茶席建築の発達をのぞむ」、52号、明治24年4月

*4:『建築雑誌』32〜34号、明治22年、3等まで順に掲載。1等;宗兵衛、2等;横川民輔、3等;藤本壽吉

*5:当時の木子のレポートについては、前掲の『建築雑誌総目録』昭和11年4月の人名索引目次p.10を参照のこと。

*6:1844ー1907、『日本の近代建築ーその成立過程』(上)、鹿島出版会、昭和54年、p.169。また建築史家稲葉信子の一連の研究に詳しい

*7:辰野葛西事務所編発行(非売品)、大正15年、p.38

*8:1867-1954

*9:「横河君の”東西美術孰れが勝れる”論を評し併せて卑見を述ぶ」。横河、伊東共々21号に掲載、明治25年。KKH引用部分は、9編建築論p.1588

*10:貨幣という等価物に置き換えなければ交換自体が不可能だという意味において

*11:浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983年)の近代社会についての簡便なまとめを参照のこと。p.99〜103