平田篤胤(1776〜1843)

宣長が築き上げた国学的『自然』のパラダイム上で、その虚無を転倒させて、無限定な飛躍を図ったのが、篤胤であるといえる。
篤胤を学問として読むのは不毛に近い。彼は宣長の弟子を自称したが、彼が宣長を知ったのは宣長の没年より2年後であったことが知られている。国学の主流であった鈴屋学からは長いあいだ異端視され、伝記を見ても宣長の生え抜きのエリートぶりに比べ劣等生的な面ばかりが目につく彼の「学」は、宣長の依然文献学としての考証的な体裁を保っていた学問とは別の視点から、その意味を問われなければならないだろう。

まず国学的『自然』は、篤胤の中でどのように展開していったのだろうか。

…ことにもろもろの学問の道、たとえ外国のことにしろ、御国の人が学ぶからには、そのよいことを選んで御国の用に立てることが大事であります。そうすれば、実は、漢土はもちろん、天竺、オランダの学問でも、すべてこれ御国の学問といってもちがいはないほどのこと。すなわちこれが、御国の人で外国のことを学ぶ者のこころえであります。*1

…またなにによらず、外国でしはじめた事物が御国に渡ってくると、それをちらと見ただけで、それ以上はるかにすぐれてそのことのできるも御国の人のすぐれたところです。この篤胤にしてもかの国の者よりはきっとよくできる。これが御国の風土の自然で、自然というのは神の御国であるゆえであります。*2

…だいたい天は動かず、地が動き旋回するということは外国の説を借りるまでもなく、もとより御国の古伝において明らかなことではあるが天文・地理のことについては西洋人の考えた説が第一にくわしく、だれが聞いてもわかりやすいことゆえ、今はその説によってということにいたします。『古道大意』*3


図1-6 先達の服部通庸の説を起点にして,編み出された「神国」日本と「外国」との関係。大国主神少彦名神によって統括された日本を中心として、神道の体系内に「外国」を包摂している。


篤胤において「日本(内部)的なるもの」は「外部」をも吸収してゆくものと転倒されている。「世界は日本を大本に生まれてきたのだから、世界のあちらこちらに「ありのままなるもの」の断片は散らばっている」という理論的前提のもとに、「内部」領域を、境界なく広げていっていることがわかる。
それはナショナリズム―「外部」―「内部」的認識―によって「発見」された「日本的なるもの」が、上記のような成立の前提からして、具体的な事象を指し示す能力に欠けていたということによるのかもしれない。その特質は、「内部(日本的なるもの)」によって指し示される領域を限りなく拡大し、「外部」をも抱摂するに至った、という図式で表すことができるだろう。

図1-7 平田の弟子佐藤信淵による宇宙生成図。当時における最新の西洋天文術の成果を剽窃している。


それは国学的思考が、別の過程に移行したことを示している。篤胤は『自然』のニヒルな荒野を前に、彼がつくりあげた多様な「神」を援用しながらファナティックにひとつの『宇宙体系』とでも呼ぶべき意味世界を構築してゆく。その姿には、もはや宣長の「論理」を拒否するもの―もののあわれ―としての懐疑の面影はない。つまり篤胤の「構築の意志」について、本居にしてみればその「作為性」こそが、「漢意(外部)」としてしりぞけた根幹にほかならない。
「外部」は「内部」の中にあるという、転倒した観念を獲得した篤胤は、『自然』という空白を圧倒的な構築の意志をもって総天然色の世界に塗りきろうとしたかのようである。そこでは当時流入してきた、ありとあらゆる世界の文物、インドあり、中国あり、蘭学邪教キリスト教、ひいては論敵の儒教までもが、奇妙な折衷となってうごめいている。
相良亨が指摘するように、そこには宣長の、古文という「真理」、超越的なその「神性」に近づこうとする趣はないだろう。しかし反面、篤胤が意識しなかったにせよ、そこにははあくまでも主体的な判断に従い、相対的に取捨選択していくという、いわば「自分が普遍的であろうとする態度」をもたらしている。これは近世的な状況の中の知性のあり方としては注目されてよいものであるように思う。以下の言説は以上のような平田の特質を象徴的に表わしているだろう。

…総て神世の故事を温ね、天地の初発、また神の御徳の如何なると云う事を知むとするには、まづ天地世間の有様を熟観て腹に一つの神代巻の出来たる上にて、神典を拝み読み… *4

彼は、宣長が判断中止を促した領域、「死後」の世界の宣長的ありように、あくまでも反対した。宣長は「死後」という不可知を「不可知そのものとしてみとめる」*5(相良享)という永遠の諦観をもってむかえたが、篤胤は「死後」を知りえるもの、語りえるものとして、「胸はしり、火に心燃え、骨髄より火でるばかりの」*6決意をもって、理論化を図る。それは不可知なるものを「不可知」なるものとした本居的なニヒリズムを超えて、いきおい、「死後」を論理的に知りえるものとして構築してしまうという、「暴挙」を敢行する。篤胤が信じたのは、徹頭徹尾、論理によってたちあがる、言葉の力である。

*1:責任編集相良亨『平田篤胤 日本の名著24』中央公論社の現代語訳を用いた、p.89

*2:前掲に同じ、p.129

*3:前掲に同じ、p.137

*4:『古史伝』「日本の思想史における平田篤胤」相良享(前掲書所収p.11)より引用

*5:前掲に同じ、p.12

*6:『玉だすき』(文化八―1811年)を参照のこと。