「物語」としての妖怪談

篤胤は後年奇妙な一連の著作を発表しだす。『仙境異聞』、『古今妖魅考』、『勝五郎再生記聞』、『霧島山幽郷真語』などこれらの著作は、幽界あるいは幽界と現世の境界上に発生する、不思議なものがたりを語ったものである。

その年の四月ごろ、東叡山の山下に遊びて、黒門前なる五条天神のあたりを見てありけるに、年の頃五十ばかりと見ゆる、髭長く、総髪をくるくると櫛まきのごとく結びたる老翁の旅装束したるが、口のわたり四寸ばかりもあらんと思う小壷より丸薬をとり出して売りけるが、とり並べたる物ども、小つづら・敷物まで、ことごとくかの小壷に納るるに、何のこともなく、納りたり。かくて自らもその中に入らんとす。何としてこの中に入らるべきと見いたるに、片足をふみ入れたりと見ゆるにみな入りて、その壷、大空に飛びあがりて、いずこに行きしとも知れず…『仙境異聞』*1

これは、たびたび神かくしに出会う仙吉という少年が、仙人とのなれそめを語ったくだりだが、篤胤は少年との対話という形で、事細かに、まるで現実にあるかのように、幽界の様子を抽出していく。
もはや彼にとって幽界は「あの世」ではない。それは現実に存在するものとして語られる。それは「論理」という「作為の世界」では存在できるから。
また篤胤は、幽界という「形而上」的世界と、現世(顕界)との背後に、これを統括するものとして、造物主的な「産霊の神」を造り上げ、それは一対の人格を持った男女神で構成される。そして、人々の中には、生まれながらにして産霊神の霊が備わっていると規定した*2
産霊神は、「死」、「幽界」という「形而上」を相対化させる理論的構築物としてはたらく。またそれは、男女の営みを宇宙生成の原理と類比してとらえることによって、こちらがわ、と直結している。つまり花はこちらがわにあるのだ。
相良は篤胤の産霊神の概念を、我々を超越する神ではないこと、ひいては、日本人が超越的なるものを容易にとりいれにくいことの実例として、やや批判的に評しているが*3、逆に彼のいう「反形而上」「反知識人」としての理由によって、国学的『自然』の言語領域における「形而上」の仮象ぶりをあらわにさせた、ともいえるのではないか。
「外部」は「内部」の中にある、という転倒は、ナショナリズム―「外部―内部」的認識―のもたらす、大きなパラドックスである。その構造を「篤胤的なもの」と捕獲すれば、それは非常に危険な手法としてもあるだろう。
無限定にとりこまれてゆく「外部」は、「内部」として措定された、ニヒルな『自然』という器に回収される限り、全ての営為がその構造を絶対的なものにしてしまうおそれを有している。「篤胤的なもの」の残骸が、明治以来の皇道思想の、最低のレベルまで落ちてゆくとき、その特徴は、あらゆるものを吸収しながらもいつまでも空虚であるという状態をもたらした。そのような精神的な危機が、後の狂信状態を準備したことは明らかだろう。そして肥大化した『自然』概念は、体制のみならず、意識的であろうとすればするほど、「知識人」を荒野にひきこんだのである。
しかし篤胤というB級物書きの、『自然』という空白を、ファナティックに多様な色の断片で埋めようとする試行は、その最終期において、ニヒルな『自然』から脱却し、「内部」のオーバー・ロードをもたらしたのではないか。さらにこの手法は、篤胤において篤胤の意識を超えて、ナショナリズムを自ら消滅させる寸前までつきつめたように思える。
そして「篤胤的なもの」のもう一つの側面が創り出した、境界上の「物語」、「仙吉」をはじめとするたくさんの妖怪たちは、ナショナリズムの殻をやぶって、チミモウリョウばっこする、地表の裏側に、生き生きと潜っていったような気がする。
本居陣営から、いかに山師よばわりされようと、それは言葉の力に外ならない。
つまり、論理上では、妖怪たちは、生きられるのだから。

*1:前掲の『平田篤胤 日本の名著24』所収の版を用いた、p.407

*2:『古道大意』、これらの分析は多くを子安宣邦の研究『平田篤胤の世界』に負っている、p.25

*3:『日本の思想史における平田篤胤』(前掲に同じ、p.20)