本居的なものとしての「用vs美の二元論」

ここからは特に国学的な『自然』概念を、建築論的構造に定位させることを主眼としながら、再度明治期における、近代「日本国」建築の論理構造を組み立ててゆこう。


■「用vs美の二元論」
まず日本的ナショナリズムの論理構造が、近世国学ならびにそれを成立させた「外部―内部」的認識によって準備されたとするならば、洋風政策―対外政策―にその成立の端緒を規定された近代「日本国」建築にあっても、その最初期より観念的な構造として把握されているという仮説がなりたつだろう。
それは現在に至るまで、なお基本的な建築のとらえ方としてその構造を残存させている、いわゆる「用vs美の二元論」としてあらわれた。この方法論にあっては、外部性が「美術」内に回収され、「(実)用」という空間を必ず残すように設定されている。そして「実用」―実;ほんとうの、用;はたらき―という概念は、国学における『自然』同様の、論理に対置した「生活思想」としてのガンコな意味を持ち、その「現実」的な反論理としての働きは、「外部―美術」を「作為的なもの」として、相対化する批評装置になりえるものである。とりあえず、これによって日本は「内部」を保証する前提の場だけは獲得したことになる。つまり本居的な布置が、ほとんどそのまま踏襲されているといってよい。
そして以上のような「外部」輸入の方法論は、洋風政策全体を統括する制度的思想、つまり「和魂洋才」に深く連動している。
そして洋風建築が以上の方法論を前提として成立していながら、建築論的には全く同一の地平に立っている擬洋風建築*1とは異なる、より西洋のコンテクストに肉薄した完成度を持っていたのであれば、その作品としての完成度の相違をもたらした「技術」の相違が語られなければならない。


■西洋「技術」の移植過程
従来に支配的な見解では、明治政府の洋風政策は、「技術」的見地からみれば、江戸幕府、あるいは各藩の主導する殖産興業政策、あるいは洋式による軍備増強政策に連続しており、国家的規模で行われた西洋技術の移入過程はここに端を発している。
この問題は、近代日本の成立そのものに関わる問題ゆえに、多くの人々にとりあげられてきた。「和魂洋才」という「外部―内部」的認識を、評論家小能林宏城は、優越して先行する西洋文明に対抗するための精神的支柱として見なしており、そのフィルターがなければ、これほどまで速やかに西洋技術を摂取することは無理であったろう*2と述べ、また稲垣栄三はそのフィルターとしての作用の仕方を、明治の指導者たちは、ヨーロッパの圧倒的に優越した文化に直面して、実にすばやい手つきで、それを「物質文明」と「精神文明」に選り分ける。維新後の日本が当面していた問題は、産業や技術や軍備などの新文明で武装することであったから、摂取の対象となったのはその「物質文明」の方に限定されたと、評している*3。しかしある人工物を「精神」的部分と「物質」的部分とに分けることはそれほど簡単なことではないし、自明なことでもない。つまり「選り分け」を可能にさせた移入過程の構造そのものについては、彼らは多くを語らないできたように思えるのだ。

フィルターを通して、摂取された「西洋文明」は、その全てが「技術」として働いた。
このよく使われる言い回しは、その「技術」がヨーロッパの内部体系から切り離された、固有の思想を伴わない、中立した意味合いを前提としてもたされている。そのような特殊な移植過程のドキュメントは、従来の一般的な見解ではおおよそ次のように語られてきた。
一般に、産業革命以来、ヨーロッパの「神」を頂点とする統合的な科学体系は、そのバランスをくずし、生産性を重視する実利的な科学の特定の部分の肥大をもたらした。その肥大は、科学の細分化、専門化という、ヨーロッパ的な統合体系からの自律をひきおこした。
肥大する科学の専門化は、その細分された各科学分野を以前のヨーロッパ的な文脈から離脱させ、原理的にはどのような社会の中でも成立しうる性質につくりかえた。つまり日本が移入をせまられた、19世紀のヨーロッパの科学は、近代を推し進める実利的な諸価値、「技術」にすでに変容していたのである。
そして、日本においてもすでに、幕末封建社会での商業資本の蓄積が近代化を受け入れる器として準備されていたし、貨幣の流通が引き起こす「合理的精神」は主に商人文化の台頭によって保証されていた。後年になるが、幕府300年の間に集積した多数の典籍によって、明治元年に創設された沼津兵学校は、その内容として、高等幾何、微積分学、流体力学、測量、動力学までもが含まれていた*4。以上のような前提に支えられた明治政府は、中立的な「技術」の速やかな摂取を成功させた。つまり既存の研究から導かれる地平においては「技術」は「内部」体系になんの矛盾もなく融解せしめた、とまずは結論づけられてしまう。


■「実用」として規定された諸技術の特性
しかし技術は本当に中立でありえるのだろうか。ワープロにどうしても馴染めない手書き派がいるように、技術はその成立自体に特定の性格をもつ存在である。いいかえれば僕たちの必要に見合った技術の目的―観念―にまったく関係のない、「中立―ありのまま」としての人工物なんてありえるのだろうか。ワープロを動かそうにも砂漠ではお似合いのコンセントが見つからないように、ある技術はそれをとりかこむ社会的な関係によって意味を変え、あるいは変換されてゆく存在なのではないか。だから技術は「表現されたもの」として特定の行為をよびかけるように、僕たちの前に存在しているのではないか。
だから次のように言い換えたほうがより事態は風通しのよいものになるはずだ。つまり技術という存在が「日本」的な文脈―「内部―外部」的認識―のなかで把握されるとき、それは「技術」として中立であるという特性を暗に持たされているのである。その技術とそのような観念との特定の関係の在り方が、いわゆる「実用技術」と表現される関係なのである。だから僕たちは「技術」の移植過程の構造を、より詳細に見ていかねばならないだろう。


■「技術」としての様式
洋風建築において、これもまたよく言われることだが、「技術」に対立した概念とされている「美術」分野でさえも、「技術」的に受け入れられたふしがある。これは日本が洋風建築移入に際し、主な範例としたのがイギリスの折衷主義であったことに関係していたのかもしれない。『建築の世紀末』*5において、建築史家鈴木博之は当時のイギリスの状況を―作業的仮説として*6―まず次のように要約している。

様式主義、リヴァイヴァリズム(折衷主義の前提をつくった方法:筆者註)は、原理的にはどのような社会でも成立しうるものであった。様式は外套となって、建物にまといつくことも可能であり、機械的に製造することも可能である。その時に建築をつくり上げるための理論は、一種の純粋美学あるいは応用自在の技法として、自立的に体系化され得る。*7
…建築における歴史的な様式のリヴァイヴァルは、社会が大量生産を求める機械の時代になっても、資本主義の時代になっても矛盾なく造形のプロセスをくり返してゆくことができるものであった。*8

ヨーロッパ建築においても、ルネッサンス期における科学の統合としての象徴から、産業革命の中、リヴァイヴァリズムを経て「様式」という一分野が、建築家のプロフェッションとして「自律」するようになる。そしてその様式は、「原理的にはどのような社会でも成立しうる」、「中性的な技術」の貌をもってあらわれた。このような時代背景を持つ折衷主義者であるイギリス人建築家J・コンドルの、来日以降に整備された明治18年の工部大学校の造家学のカリキュラムでは、他の「技術」的な科目にまじって、様式は「造家式ノ沿革」として規定されている。その条文にあらわれる、埃及ギリシャ式、アッシリア式、波斯ローマ式、印度式支那式…といった時系列のない羅列に明らかな中立性は、確かに「技術」として受け入れられていることをあらわしているのかもしれない*9
建築を成立させる要素は、すべて「技術」として中立でありえる。しかしそうなると、現に存在していた「用vs美の二元論」という観念的な対立関係そのものが捨象されてしまう。


■様式の反逆
しかし様式は「技術」であること、その中立性を放棄してしまうのである。
例えば、明治20年1月の『建築雑誌』創刊号における、「家屋改良論」(無記名)は、「技術」的地点から「様式―美術」だけが飛躍して、「用vs美の二元論」の構造をつくりあげている好例である。
それによれば、造家とは人体のようなもので、「外部をもって皮肉とし内部をもって機関とす」る。そして「外部」の装飾は「唯美術の本源に因り」、「内部」は「火災震害を防御し」「風土習慣に適合して」「人生の健康を保護する」ことがその目的であるとされる。そのために「内部」は換気、構造、材料、築造(構法;筆者註)、暖房、音響及び光線などの「世界一般此工芸日進の時に」際して、わが国もこれを取り入れ「家屋築造の改良」を目指すべきであると結んでいる*10
鈴木は前掲の書で、折衷主義の特徴として、さらに次のようにのべる。

…様式は建物全体の構成をまとめ上げるためのシステムとして働く。様式には定石がある。たとえば柱1本から始まり、小祠堂(アエディグラ)あるいはポーティコのような構成単位を使うことによって、建物の形はシステマティックに決めることができる。…リヴァイヴァリズムとは、このような原理を応用する態度である。…
様式は、さまざまな規制と制約に満ちており、一見したところ不自由きわまりないが、ひとたび様式を用いて建物をまとめ上げようとすると必ず様式上の制約と建物の要求とが衝突して、あらゆる工夫をこらさなければならなくなる。それは逆に建築家にとっては、もっとも大きな創造上の喜びにつながるのである。
こうして、様式を外套と考える建築家たちは、様式の制約の中で一番の充実感を持つようになってゆく。*11

ここでは、あらかじめ中立的であったとされる「様式」が、実は設計の段階にあっては、ヨーロッパ固有の文法体系にひきずられてしまうことが語られている。それは折衷主義的体系を「技術」としてうけいれた、日本の建築家たちにとっても同様であったということができる。そうでなければ『建築雑誌』創刊当初の建築様式―装飾―に対する、多様な解釈の意味を説明することはできない。もし様式が「技術」的に語られるならば、産みの苦しみにも似た様式論が発生する前提自体が回避されているはずである。つまり、様式操作をそのプロフェッションとする建築家にとって、その操作を規定する内在的なルールを追求するのは、しごく当然なことである。その目的がヨーロッパ建築の核心に迫ろうとするものであればあるほど、ヨーロッパ建築の体系に抵触せざるをえない。
ではその「異国」の文法体系に抵触する範疇は何か?「外部」との閉じられたがゆえに自由な交換の場、「美術」に外ならない。南蛮渡来の骨董の、故事来歴を訪ねようとするならば、「美術という出島」に越境する以外になかったのである。「建築家」という職業は、その最初期から、亡命者のような存在であった。


■「用vs美の二元論」と本居的布置との関係
この章において、国学についての章を不自然な位置に置いたのは、基本的なナショナリズム―「外部―内部」的認識―より導き出される構造と、国学という「自律」的な観念として結実したナショナリズムとの二重映しを意識したからである。両者の関係をまとめると、以下のようになるだろう。つまり日本的状況とは、

  1. 論理領域と「外部」とを同義としたこと。論理に対置させた、反論理としての『自然』概念を「内部」として規定したこと。
  2. 反論理としての『自然』を論理領域内にひきこんだこと。これは論理領域が、相対的に閉じられた「論理」領域となって、その地位を低下させることを意味している。
  3. また「反論理」としての「内部」は、イデオロギーの放棄という性格ゆえに疑似「普遍」性をまとうこと。
  4. それによって「日本的なるもの」が「論理」領域と「反論理」領域との二重写しとしてあらわれたこと。
  5. そしてそのような二つの「内部」は、お互いに対立すること。

この視点によって、「用vs美の二元論」において表れた用語を分類補足すると、次のような図式でまとめることができるだろう。

図1-8

*1:洋風建築に似せた建築で、明治5、6年から10年にかけて作られた一様式をいう。維新後の欧風化の思想を当時の大工、棟梁が、見よう見まねで洋風に見せる工夫をしたことが特徴となっている。長野県松本市の開智学校など。

*2:接触と回帰」『建築について』相模書房、昭和47年、p.40

*3:『日本の近代建築 その成立過程』(上)、鹿島出版会、昭和54年、p.20

*4:建築学体系』37 建築学史 建築実務、彰国社、昭和37年、p.99

*5:晶文社、1977年

*6:鈴木は従来の「美術vs技術」という対立図式を批判し、当時のイギリスにおける折衷主義―装飾―の可能的な意味をさぐりあてた優れた先行研究者である。ここで鈴木は本稿で用いたような折衷主義のとらえ方を、のりこえるために要約していることを併記しておきたい。

*7:同書より、p.287

*8:同書より、p.286

*9:村松貞次郎『日本近代建築技術史』彰国社、昭和51年、p.46参照

*10:これにより当時の「用」、「美」にそれぞれ何が付着したかその構造を知ることができる。「外部―装飾―美術」の連鎖に注目。

*11:前掲の『建築の世紀末』、p.284