伊東忠太・・・「篤胤的なもの」の可能性

「日本建築」史家のフロンティアであり、当時すぐれた若手評論家であった伊東忠太の活躍した19世紀末から20世紀初頭にかけては、建築論の領域の拡大が、なにやら明るい調子をともなって、展開されている。それは伊東の提出した開かれた建築世界観として表れ、また伊東自身がそのような状況を保証してゆこうとしたものであるともいえるだろう。そして見逃してはならないのは、伊東の「日本建築」が本居的な『自然』の虚無性を相対化するほどの、構築の意志を持ってあらわれたことであった。それを篤胤の手法が持っていた可能性とオーバー・ラップさせることは、あながち突飛なことではなさそうだ。


■美術の飛躍

且つ夫れ我が学會は「ア−キテクチュ−ル」に関する萬般の研究にして只に学理のみを講究するものに非さるべし、果して然らば吾人は之に学會の名称を下すに躊躇せざるべからざるなり、吾人は我が学會に於て亦た藝術を研究するなり。工事實施の方法を講究するなり、これに附随する規約法律を論究するなり、我が学會は学理と藝術とを合せて之を抱括す之を造家学會と云ふ大に非なり之を建築学會という亦た甚だ妥當にあらず余は爰に希望す余は造家学會を改めて建築協會と呼ばんことを… *1

明治27(1894)年の『建築雑誌』誌上において伊東が展開させた「造家学会改名論」は、「造家」から「建築」へ、いわば「技術」から「美術」へ、建築を路線変更させたものとして有名である。そして伊東の要求どおりの、明治30(1897)年における「建築学会」への移行は、短い「美術派」の春を象徴した事件でもあった。伊東は同論で「(美)術」がよってたつその特質を、「その建築の沿革を論じて形式のよって来たる所を考えその形式の美醜を通じて手法の運用の原則を研究する」と表現しているが、そのような視点は先の展開の通り、建築家たちの「美術という出島」への越境行為を表現した言葉でもあった。そこでは外部との観念レベルにおける交通が行われえた。当時イギリスを通って流入してきたいくつかの美学論は、彼らに革命的な視点の移行をもたらした。そしてその視点にたった伊東の目的は、「西洋」に対抗し得る「日本建築(史)」をつくりあげることであった。
「日本建築」という視点は、ナショナリズム―「外部―内部」的認識―の俯瞰的な視点から生み出されたものであるが、それを構成するための手法は、奇妙なことに決して国学的『自然』の特質であった、『論理を拒否する論理』からは導き出せない類のものであった。
伊東の立場は微妙である。「出島」を抜け出すことのできない「日本建築(史)」は、潜在的に『自然』、「実用」の立場から相対化される恐れをはらんでいたからである。しかし逆に隔離された「美術」の周縁的自由さは、彼の出発したナショナリズム―「外部―内部」的認識―の強固な枠を無化させるほどの、観念的上昇をもたらした、彼の「法隆寺建築論」をもとにその特質を見てゆこう。


■「法隆寺」…世界に開かれた「日本的なるもの

…吾人は宜しく我が神州の建築を研究し、一は以て神州の光栄を発揚し、一は以て建築学裡に一種の光彩を添へさるへからさるなり、…*2

とのように、「内部」保証のための理論構築の必要性をとなえた伊東は、彼自身の言葉によれば「我邦古代の建築」であり、「秀美にして建築の好模範」であるばかりでなく「歴史の微証」「考古学上の資料」となる法隆寺を「帝国大学の命」によって、調査する光栄を当時得ていた。彼は明治26年の学会での講演を発端として、分析、改変を重ねいくつかの『法隆寺建築論』を発表しはじめている。ところが彼はそのいちおうの終稿 *3において、意気揚々とこう結論づける。

結論
藐矣たる神代より降りて人皇三十代の頃に至るまで、年を閲すること幾千年、其の間我が邦の天地冥蒙として日月為に明らかならず、萬物皆永眠に就きて死灰の如く、学術啓けず技藝熟せず、混沌として世界原始期の状態を呈したり。是の時に當りて電光一閃西方より来りて斯の暗黒を破り、天地をして始めて明かに、萬物をして彼の永眠より蹶起して能く活動せしめたるものあり。これを佛教傳来となす。
仏教伝来と相伴ひて諸般の制度文物学術技藝、滔々として我が邦に傳来し、我が建築術亦是の時に於て勃興せり、惟ふに仏教伝来以前の建築は、只々雨露を凌ぐに足ると云ふのみ。


図1-9 伊東忠太による設計作品例(1)。中山法華経寺聖教殿(1931竣工)。ストゥーパの外観にパンテオンのような内部が組み合わされている。


予想される「皇国史観」はない。それどころか伊東にとって「日本」ひいては「東洋」の美の結晶であったはずの法隆寺は、こともあろうに仏教伝来という、漢意の賜とされ、のみならず「神代より降りて人皇三十代」の頃に至るまで、彼の地は野蛮人の棲む世界であったとさえいうのである。しかし彼はそのすぐ後で矛盾とも思えるような結論をも主張せずにはいられない。

本邦建築は由来正當の解釋を得ざりしと雖も、要するに自ら一種の趣味を備へ、世界建築場裡に於いて優に一方に覇たるもの、其の長所と共に短所を有する亦素より其の所なり。吾人何を苦んで強ひて東西の美術を比較し、強ひて優劣を論斷することを為さんや。吾人は法隆寺の建築が、…一種の完美なる形式を大成することを確認し、茲に本論の局を結ぶ。

法隆寺を「外部」に対抗する「内部」的な美の結晶としておし上げようとする彼の絶対的ともいえる使命そのものが、近代「日本国」建築にすでに現前していたナショナリズム―「外部―内部」的認識―によって立つ伊東自身にとっては不可避であった。ところがその論拠は、先のように「外部」に依存している。同論においてはそのような手法がいたるところ、パッチ・ワークのように散在し連結されている。たとえば、法隆寺の柱のふくらみの遠源をギリシャ及びローマのエンタシスにもとめたり、中門の中の間と脇の間との大きさの比を10対7、いはば黄金比の関係として評価し、ドリス式を推古式、イオニア式を天智式、コリント式を天平式に当てはめている。このような「日本的なるもの」の取り扱いが、エキゾチシズムの限界からもはみだしてしまい、また他律的なエキゾチシズムをズラしたところにおいて成立した本居的なナショナリズムとも対立しており、いわば二重のナショナリスティックな転倒を経た論的地平からせりだしてきたものであろうことは想像に難くない。それはナショナリズムにおける絶対的矛盾であるとさえいえるだろう。

図1-10 伊東忠太による設計作品例(2) a. 不忍弁天堂天竜門(1914竣工)伊東の愛した自作の一つ。b. 築地本願寺(1934竣工)印度様式の外観、内部は「純日本様式」c. 祇園閣(1927竣工)。祇園祭の鉾をそのまま模っている。


彼は法隆寺論を生涯にわたって展開しているが、その「亡国」的な視点と、後期になるほど顕著になる「国粋」的史観の分裂は、その特徴をますますあらわにしている。昭和5年に執筆された「古代建築論」では、「日本の円満なる菩薩像の面相には、当然日本人の顔貌と共通な点が潜在している」と前置きしながら、その直後に法隆寺の菩薩像に「甚だ相似た」トルキスタン地方の女子の写真を「発見」したりしている *4

図1-11 法隆寺の菩薩像に「甚だ相似た」トルキスタン地方の女性(『伊東忠太著作集 日本建築の研究上』より)。


そのような手法は彼の、「内部」世界を創りあげる根拠として用いられる、多数の「外部」的断片、という両者の特異な関係性に象徴されるだろう。
彼の主眼は「外部」に対抗しえる「内部」体系を構築することであった。それは伊東忠太の出発からして、本居的な「反論理」の対極にたつものであったことを意味している。そして基本的なナショナリズム―「外部―内部」的認識―から逃れることのできない彼の「日本建築」は、指し示される対象との対応が恣意的であり、同時に曖昧である。その枠は規定されながらも、実は全ての論理を―つまり「外部」でさえも―許容する空白の場として機能する。そしてこの論的展開の「自律」を標榜した倒錯点として、「外部」は「内部」にあるともうけとることのできる篤胤的な構造を導きだすことができる。それは同時に、ナショナリズム仮象性、あるいは自己矛盾をあらわにさせた、ということができる*5
「美術」派の急先鋒として明治建築の一片を体現していた彼は、その理論をより強固なものとするため、逆にナショナリズム―「外部―内部」的認識―を空洞化させる作業を続ける。明治34(1901)年、新世紀の夜明けはここ日本においても同様であったかのように、建築界もまた、大阪で開催されることになっていた第5回内国勧業博覧会に向けての準備に浮き足だっていた。伊東忠太は遠い「異国」への長旅の一歩を北京にしるしていた。


■新世紀へ向けて
そして36(1903)年開催されたその博覧会場で、建築家の粋を集めた美術館の横にエビス・ビール社製の巨大な樽の広告が鎮座し、美観論争を巻き起こしていた。その時、伊東は遠く南方中国を抜け、ビルマ・パガンの五千もの仏塔広がる荒野で、軽妙なスケッチを繰り広げていた。
彼の生涯にわたる多量の論文、建築作品、漫画は、その開放されてしまった「日本的なるもの」を語り伝えて余りある。そこには「世界」のいたるところから収集された多様な色の断片が、「内部」という空白を総天然色で埋め尽くすかのように連結されている。おびただしい数に上る奇っ怪な「外部」で彩られた「日本建築」、多様なアジア建築論、おぞましくもコミカルな妖怪たちの担ぐ鳳輦に乗った頭領の妖怪がチミモウリョウばっこするジャングルの密林へ旅をするかのような自製の漫画、その頭領はわたし自身だと伊東はいっていた、ような気がするがそんな伊東の、表の「国粋主義者」の裏側にある余技的な部分こそ、彼の真骨頂であったような気がしてならない。

図1-12 伊東忠太による擬画作品例。a. 題名不祥(村松伸所蔵)b. 降魔成道の釈迦


「妖怪」たちは生き生きと描かれ、まるで血が通っているようにさえみえる。もしや彼らは人間世界の向こう側で、人間たちを笑っているのかもしれない。彼らは僕たちに何も強いたりはしない、僕たちと関係なく薄片の中にぽつんと立っているかのように見える。しかし彼らは僕たちを通ってあらぬところで地表に姿を見せはじめる可能的な存在でもある。言葉の力もまたそのようなものなのかもしれない。

先のビール樽事件に関し、ある建築家は次のように言っている。

恵比寿麦酒樽は美術館との調和を損するを以て其評大に悪ししと雖ども廣告中尤も成功せるものにしてその小屋組の如き亦頗る妙味なり。*6

この言葉は「建築の明治」がもっていた柔らかな土壌とでもいうべきものを象徴している。その会場においてはビール樽の他にも「餘興不思議館」「ウオーターシュット」、当時の珍しさゆえの「冷蔵庫」など、各種の余興館がひしめきあい、当の内国勧業館にあってもヘチマで屋根を葺き、硫黄肥料を3.6メートルの六角塔に積み上げるなど、奇異な博覧方法で衆目の目をひいた。それらは「内国博覧会」という「出島」ゆえの自由な場によって保証されたといえる。伊東だけでなく、当時の状況全体が「美術」のエキゾチシズムによりそいながら、どこにゆくとも知れない場所だけが持ちえる明るさを創りだしていた、ように思われるのだ。確かに端からみれば失笑をかうようなものばかりなのだが、そのどこまでも人為的であろうとする態度は、近代「日本国」建築の系譜にあっては、非常に例外的な一時期として映る。若き伊東が活躍したこの時期は、「美術」概念の拡大期にあたり、それによって国学的「実用」としての「内部」はその位置を相対的に下げていた。

図1-13 a. 明治36(1903)年に行われた第5回内国勧業博覧会の様子(『建築雑誌』197号より)。b. 第5回内国勧業博覧会における奇妙な特産物の展示方法の例(『建築雑誌』198号より)。大阪特産寒天屋根(左)ヘチマ壁、ヘチマ屋根(右)


■プロジェクト螺旋塔と隠された技術…博覧会とその表現主体について
たとえばいまここに、本稿の精神的な護符とでもいうべきペラペラの紙切れがある.前記の博覧会のために構想された、無名の人物阿部今太郎*7によるパノラマ・プロジェクト「螺旋塔」*8の図である.

図1-14 第五回内国勧業博覧会のために、建築学会準会員阿部今太郎によって設計企画されたパノラマ・プロジェクト”螺旋塔”(『建築雑誌』183号より)。


浅草十二階に代表されるパノラマ建築は、明治期に流行した見せ物であり、垂直にそびえる塔を上る移動性や、パノラマ建築内部で展開される360度の「絵空事」といったスペクタクルによって、当時最先端の遊興の場として人気を博していた.このプロジェクトにおいて阿部は、パノラマの持つヴィジュアルな移動空間という特質を、一人乗りエレベーターというか、ゴーカートのような移動装置を考案することによっておしすすめ、また近世の栄螺さざえ堂が実現できなかったフォルムとしての栄螺=螺旋を提案することで、その人工的な迷宮としての完成度を高めている.

図十五 プロジェクト”螺旋塔”の内部装置断面図、詳細な骨組図のほか奇妙な一人のりエレベーターが考案されている(同上)。


なるほどこの建築はすぐ倒れてしまうような仮設的な矮小さに満ちているかもしれない.しかし詳細な木造骨組図まで添付されたこの構想図を、単なる「絵空事」として歴史のかなたに葬り去ることほど無意味な作業はない。なんの思考も存在しない「ありのままなる」人為物がありえないように、この「表現された」絵空事には必ず何らかの表現主体としての契機が隠されているはずである。
明治以前、ここ日本では精緻な体系をもった木構造の技術体系があった。そして明治に入って新しい技術が流入したことによって、自然に考えれば、それら木構造の可能性の地平は広がったはずである。しかし実際には僕たちの伝統構法は、「日本建築」たらんとする矮小なエキゾチシズムに専制されてしまい、それらは「西洋建築」という観念に対抗するお先棒を担がされたのである。しかしこの螺旋塔に表れた骨組みは、その専制した構造を凌駕するような力をもっている。「螺旋塔」は近代「日本国」建築の系譜の中でも一際光彩をはなっているのだ。螺旋塔の存在を新しくとらえ直そうとするような作業は、これからの僕たちの建築世界をつくりあげてゆくための、キーでもあるような気がする*9

*1:「ア−キテクチュ−ル」の本義を論して其譯字を選定し我か造家学會の改名を望む」『建築雑誌』90号、明治27年6月

*2:「日本建築術研究の必要及び其研究の方針」『建築雑誌』92号、明治27年8月、KKH、p.1555

*3:工科大学紀要1、明治31年3月、本稿における引用部分は、『伊東忠太著作集 日本建築の研究上』原書房による復刊、昭和57年、に掲載された版を用いた。なお法隆寺建築論の詳細な推移については、丸山茂の論文「伊東忠太明治20年代の建築観とその変化」、昭和53年学会論文を参照のこと。

*4:前掲の『伊東忠太著作集 日本建築の研究上』に所收、p.277、278

*5:また伊東にとって不本意かもしれないが、その論理構造はナショナリズムにおける最悪の位相を示す「国体論」にも共通する前提でもある。丸山真男が指摘しているように「ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提から切り離されて部品としてドシドシ取り入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい私たちの旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり」「あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはまりこむといった事態」(『日本の思想』p.14)がしばしばおこる。これは「国体論」に典型的なパラドックスであり、その極限までの上昇がナショナリズムを自滅させる以外は、「内部」性を絶対的なものとしておしあげるファナティシズムに陥ることは明らかだろう。

*6:古宇田實「第五回内国勧業博覧会視察報告」、『建築雑誌』189号、合本p.262

*7:阿部については、後に詳しく報告した。参照:中谷、中谷ゼミナール著「近世建築論集」2004年アセテート

*8:『建築雑誌』183号、明治35年3月に所収

*9:またこの螺旋塔構想の場となった、明治以降たびたび開催されることになる博覧会についても、通常近代における帝国主義(国家資本主義)を主奏とした政策の外化、表現物としてのみ語られ、ややもするとその場における表現主体の問題は見失われがちである。しかしこのような従来の視点には、実は現代的な国家像に規定された不自由さがつきまとっているように僕には思える。当時の博覧会における表現主体の問題は、近代「日本国」建築の場におかれた建築表現行為とも比較可能な読解物である。