捕獲される「美術」…「明治」の終わり

(*1・6・1が長すぎたので、二つにわけました。前半を見落とされている可能性もあるのでご確認下さい。)
話をもとに戻さなくてはならない。つまり伊東は篤胤同様、自らが気づかないうちにナショナリズム―「外部―内部」的認識―の無意味さをさらしてしまった。明治ナショナリズムは、彼によってもはや幸福な死を遂げたように思われたのだが、ナショナリズム国学的『自然』の付着によって二重の防御をうけていた。逆に彼の「美術」的「日本建築」は、『自然』的立場より見たときの「作為性」ゆえに、急速にその論的な強度あるいは影響力を下げていく。「漢意」が本居の『自然』さに対置された前では、「論理」そのものが仮象性となって現れたように、である。おおまかに言って明治40年代は、彼のみならず建築「美術派」が、その折衷主義の美学を相対化されることによって、地盤沈下をおこした時期であった。

当時の伊東の主要な建築論である「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」*1に、すでにその方法論的強度は疑わしいものとなっている。ここで伊東は俗流進化論を援用して「様式」と、「実用」的範疇である「材料」との間における、弁証法的な発展を主張している。「本邦様式」という思考がやや方法的に打ち出されたものとして近代「日本国」建築論史上、一定の意義を認められているが、そのような傾向はむしろデビュー当初からの忠太の論の基調をなすものとして把握する方が妥当であり、むしろ注目しなくてはならないのは、当論中の方法論の根幹である「進化主義」の質的な新しさである。

…この進化主義を實例に徹して説明してみましよう、太古の原始的の木造建築例えば小亜細亜のスタイルの如きものが長い年月の間に漸々進化して終に石造りのクラツシクのスタイルになりました、詰り長い時間を費やして進化すれば原始的の矮屋も巍々たる大殿堂となり得るのであります、泥造りでも、草葺でも、その根源は何でも宜しい、適當な状態に於て適當な針路を取れば長年月の間には必ず進化して立派なスタイルを大成するのであります、この大成は決して折衷の結果でもなく、將た他のスタイルに帰依した結果でもなく、自ら秩序的に進化して出来たものであります、
…さてそれならば日本に於て将来どう云うスタイルが成立するであろうかと云う問題に移るのでありますが、是は非常に難しい問題でありまして、神ならぬ身は誰でも予言は出来ない、又人の力を以ってスタイルを作り出すことは出来るものではない、夫は時代の力で出来るものである以上は到底人知を以って予言は出来ない、一寸見ると古来非常に偉い建築家が出て一つのスタイルを創造したと云うことが有るようでありますが、それは一個人が創造したのではない、皆偶然にもその時代の要求を代表したのであります。

伊東は様式の成立の諸契機をより社会的な要因に還元することによって、その領域の拡大を図ろうとしている。これは忠太のみならず、折衷美学派の転回点でもあった。
このころすでに西欧においては鉄骨造の導入はもちろんのこと、O・ワーグナーのウィーン郵便貯金局(1906)をはじめとする新しい建築運動を具現化した作品が現れてきており、1908年にはA・ロースの『装飾と罪悪』が出版され、建築における世代交代が明瞭になるにつれ、以前の折衷派は建築思潮にあってはその息の根を完全にとめられていた。そのような状況の輪郭は日本においても文物を通じて認識されはじめており、例えば忠太論文をさかのぼること5年前の明治37年、下部構造様式決定論とでもいうべきフレッチャーの論が「建築における材料の勢力」と題されて連載されるようになる。

此の議論の帰着する所を概言すれば、建築の能事は材料にあるのであって、この材料の正当の用い方が様式なるものを成型するのであって建築の様式成るものは用いる所の材料の性質より生じるものである。
…然るに現今多くの建築を見るに初めは実際実用に迫られて出来た構造上の面目が装飾的の面目を呈する様になり、従って無理なことが出来る。又全ての様式を通観するに其手法建築術の範囲を脱して装飾術の範囲に移り而して識らず識らずの間に建築の精神と云うものが変ぜられてあることがある。*2

この新しい建築論は「様式」という折衷主義的思考を無化し、ひいては「歴史」性をも相対化する強度を有していた。後のモダニズム的な思考形式の源泉のひとつといえるものである。忠太が「美術」にこだわるかぎり、「用vs美の二元論」を止揚するような方法論との観念的交通は断たれており、彼にしてみれば、その閉塞的な状況の克服を図るものとして、前言の「進化主義」の意義があったといえる。

進化主義、これは人間で言えば追々と成長し年をとるに従って自然と思想が進化発達するようなもので…
とうとうギリシャ人が…数百年の星霜を費やして自然自然に進化してようやく新しい一つの世界を作り出したので…
そして何とはなしに自然自然に変化して終にゴート式建築が大成しました…
日本建築のスタイルが今日混乱しているのは当り前であります、…時をもって自然に決せらるべき問題…「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」

様式成立の根拠をより広い範疇で説明づけようとしたとき、それは折衷美学に『自然』概念をブレンドするという方法となってあらわれた。当論文におけるこのような『自然』概念の多用は、以前においてはほとんど顧みられなかったもので*3、実は忠太がこれまで築き上げてきた論理体系を補強するばかりか、逆につき崩す結果となっている。なぜなら『自然』概念は「論理」という人為的な世界をいっさい認めない批評装置としてはたらく。彼の様式論の前提の特質は、主体的に様式をつくり上げていこうとする態度であった。「美術」の拡大期であった明治30年代にあって、忠太が切り開いた新たな視点は、この世を表現されたものとしてとらえたことであった。ところが『自然』は様式の生成過程を人為のはかりしれない部分へと定位させてしまう。つまり『自然』という、仮想の判断中止領域内に様式を手放してしまったのである。

要するに特殊のスタイルの大成する迄には長い時間を要する、其長さは到底我々予想することは出来ない、併ながら人間の力では分からぬと言ってそれを放任して顧みないと云う理由もない、それは今までの数千年来の歴史が我々に或点までは教訓を与えて呉れる、之に依って将来を類推することは強ち無謀でもない、是に於て少しく日本の建築の将来のスタイルに関する世説を評論してみたいと思います。(前掲に同じ)

このような自己矛盾は、伊東自身が相対化されていく過程の産物でもあり、また以降の伊東の建築論における顕著な二律背反を支える特質である。

以上の文脈の中で行われた翌年の講演会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」*4で「美術派」の論理的破綻と「実用派」の相対的位置上昇があらわになってくる。
この講演会は題通り、将来の「本邦様式」の行く先を占うものだが、まず司会の役をつとめた辰野金吾の講演会後の評を見てみよう。

一、建築様式は自然的なものにして人為的に製造し得るものにあらず。
二、我邦将来建築様式は洋式と吾が固有式とを調和して更に起るものなり。
三、建築様式の表現は自然的のものとして之を放任すれば吾人の責任を尽くしたりといふべからず、宜しく各自信ずる様式の計画案をなるべく多く公表して様式成立を促すに努力せざるべからず。

内容が分裂しているが、これは講演会の様子そのものをドキュメントしている。この講演会自体、多くの書籍でその内容を引用されているから、ここでは特に「美術派」、「実用派」の観点から分類を試みてみよう。
まず「美術派」の伊東は進化論の再生産に過ぎない。また後輩の関野貞も彼の進化主義を底本にしながら「私のは必しも日本式西洋式と云ふことに執着しない…総ての様式を参考して自由に研究し自由にデザインして従来の日本式でもなければ従来のどの国の式でもない立派な新様式を建設するに尽力したいと思ふ」とおだやかに「日本建築」の空洞化を述べている。
また新進気鋭の建築家としてその力量をたたえられていた岡田信一郎は「自分は之れを将来の建築様式に対して建築家は今日どういう覚悟を有つて居るべきか」という意味において考えるといい、「先程関野先生の言はれた和洋を問はず国民の思潮を基礎とし、…自分の思ふ所を直截明快に現して差支ない」と、後に折衷建築家の華々しい最後を飾る彼らしい態度、いわば「美術改革派」の立場をとる。
それに対し「日本人は思切って西洋の長を採ったけれども、少しも日本の国粋は失われて居ない」として西洋建築摂取を逆に肯定する、典型的な「用vs美の二元論」者である長野宇平治は、「それでありますからして私は日本の建築様式を無理に発達させるとか、或は折衷様式で無理に引止めるとか云ふようなことはできないものと看做して居る…それで今日折衷式或は日本の新様式と云ふことを言ふのはもう既に時代に後れて居ると私は看做すのであります」と「様式」を「無理」―「作為的」―として批判する。
ではそれをより極端におしだした、日本初の鉄骨採用者である横川民輔の場合はどうか。

初端に出ました問題は「我国将来の建築の様式を如何にすべきや」と云ふ問題であります、之れを私拝見いたしましたときは少し妙に考えました、…此問題は撤回して戴きたい、少なくとも訂正して戴きたい、…様式と云ふやうな種類のものは是非どうなければならぬと云ふ理屈はないものと私は信じて居る、…又其国のスタイルが無ければならぬと云ふ理屈も私は認めないのである

彼は「実用性」の勝利を唱い、「どうなければならぬ」という偏狭な「論理の限定性」をつくのである。伊東らの美術派は、その出発のもとになった「実用技術としての様式」に回収されることによって、その「技術」の原則に反する作為的な論理の飛躍性を断罪されている。これは事実上「美術」にたいする破産通告であった。結論として次のように言う。

唯此問題を提出された如何に関らず…全體の建築者としてどう云ふ風にしたら宜いかという問題を起されるならば、大に世界的にすべし…世界的なれと云ふことを私は主張するのである

この時期に彼によってもはや、世界を等質な存在としてとらえる視点が提出されていることは特筆に値することでもあるし、また当然のことでもあるだろう。この構造改革者としての横川の論理は、第1時大戦前夜という資本主義社会に急速に移行しつつある世界的文脈にてらしてみてもパラレルだし、その必然性も後のモダニストたちより強固なように思える。ではこの時点より近代「日本国」建築論は、少なくともナショナリズムのもつ偏狭さを捨てることができたのだろうか。


■実用派、勃興す
問屋はそうやすやすとは卸さなかった。国学的『自然』という近代日本の特殊性は、横河に代表される「世界」的思考を、「内部」性に強固に結び付けるという離れ技をやってのけるのである。その時佐野利器は32歳、ドイツ留学中につき封書で建築学会にある宣言状を発送した。題を「建築家の覚悟」*5という。原文の調子を損なわぬために、やや長く引用してみよう。

一、序言
…日本の建築家の今日の意義は日本の今日の事情に依て定まらねばならぬ、之れに適合せねばならぬ、過古は勿論遠き未来の為めに左右せらるべきでない、況んや懐中字書の譯名にをやである、余は建築及び建築家なる語がア−キテクチュア及びア−キテクトの譯語とせらるるより起こる精神上の誤が建築家の間にありはせぬかを疑ふ事久しい、…
二、ア−キテクト
…之を大別したならば、美術を主とする建築家(之を藝術家と名づけん)、と科学を主とする建築家(之を技術家と名づけん)、との二つとなす事が出来やう、而して歴史上の関係からア−キテクトなる名称はこの二種別の内の前者丈けに付き纏って残つたのである。即ちア−キテクトの現在の意義は建築処理者中の一専門家で其の全きものでない、と見なければならぬ事に注意すべきである。
 三、日本の建築家
 日本の建築家は何であるべきか、…此問題に解答を与ふるものは唯一、今日の日本の事情より外ないのである、…
 国家の要求、茲に記念銅像の台を作るとき、要求は元より純美術が主であらふ、劇場を作るとき、美術上の要求少くはあるまい、然し以上の如く美術上の要求に多く迫らるる場合は建築事情として多くはない、而して建築事情中の大勢力をなす公共的建築、実利的建築を起す場合の要求は殆ど全部科学である、…
 国家当然の要求、余は財政の事に暗いが聞く所に依ると日本国民は一人につき約五十円づつの外債を負って居ると云ふ事である、こんな事を担ぎ出す迄もなく我が国の富力が残念ながら到底未だ列強の脚下にも及ばざる事は誰しも承知の事であらふ、…列強の平和は武装で維持せられ、列強の軍備は絶えず拡張せられつつあると云ふ事を聞くと竦然たらざるを得ない、武力は器力計りで測定も出来ねども気力計りでも亦測定が出来ぬから恐れねばならぬのである、日本国民たるものは一整に皆此の恐れを抱かねばならぬ。国民たる以上…気力の養成と同時に殖産、興業、商業、節約、有りと有らゆる手段を盡して富力の増進に努力すべき時である、…何事も夫れより割り出さねばならぬ西洋文明の直輸入では何時迄経っても間に合ふ時期が来る筈があるまい、して見ると国家の建築的要求は實利を主とし足る科学体であり又あるべき事は當然である、無意味の贅事に浮身をやつして居られる時ではないのである。
着実なる国家現在の要求が以上の如くであり又国家現状に見て国民挙て實利を主とする要求を為すべきが至當であるとすれば日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき事は明瞭である、西洋のアーキテクトは何で有ろうとも日本は日本の現状に照らして余は此の結論に到達するのである、科学は月に日に進歩する、「如何にして最も強固に最も便益ある建物を最も廉価に作り得べきか」の問題解決が日本の建築家の主要なる職務でなければならぬ、如何にして国家を装飾すべきかは現在の問題ではないのである、…美術に対する余の解釈は下の如くである、「現在は只、国民の慰安、人格修養、實利増進の手段要するに国力発展上に意義を有するに過ぎぬ」美術は無意義に有難い譯でもあるまい、斯くの如くして美的意匠は単純なれ、上品なれ、堅実なれ、決して華麗に流るる事を許すべきではない、用は實利の問題が主である。
 四、建築家の社会的地位
 社会は己れの必要に応じて地位を与える、政治家や軍人が社會に甚だ必要ならば社会は之を尊敬する事に不思議はない、建築家は国家の要求(當然の)に善く適合してこそ初めて適當の地位も得らるるのである。…国民未だオ−ダ−のプロポ−ションを味ふ事に馴れずと認めたならば、是なくしては家を作り得ざる自己を恥ずべきが正に忠実なる国家の建築家ではないか。
 要するに建築家たるものの寸時も怠るべからざる研究事項は国家当然の要求たる建築科学の発達であって、建築家が社会的地位を得べき唯一の進路も亦是である事を思ふ事切である。
佐野利器『建築家の覚悟』

以上のような言説は、「美術」のイデオロギー批判としては当を得たものといえる。拡大された実用的思考は伊東忠太の規定した建築概念をも無化させる勢いをもった。ここでは美術の可能性は「美術」に疎外されている。そして可能性を絶ち切られた「美術」は、そのとき「無意味の贅事」と表現されてしまう。またここで技術は「中立的なもの―ありのままなるもの」として、本居的『自然』に同様の反論理にむすびつけられた。もはや科学は「内部」と同一であり、「技術」のもたらす「中立性」はどの位相においても種々の現象に内在的に作用するから、それらすべてがナショナリズムに連動されることも可能である。つまり「国体」が建築論内部に、丸山真男の言葉を借りれば「精神的機軸」としての無制限な同質化の機能をもってたちあらわれてきたのである。
このとき「建築の明治」が終わったのだと思う。

ー九十ー年十月四日
東京
  親愛なるコーちゃん
 長らくごぶさたしたね―変わりないかい。大洋を渡る白鳥が君の在所の知らせを運んで来たので、私も運命が君にやさしくしてくれたことを知って嬉しいよ。
 君が去った時、私はとても淋しかったよ―君の夜ごとの散歩が懐かしくて私の胸は痛んだし、君のうろつく姿がなくなってテーブルはにわかに広々としてしまったしね。たった今も私は君の写真を前にして書いているよ。君は世界中の猫を殺してしまった。だって君はただーぴきの―唯ーの私のいとしい猫だからさ。

同じ年、死を2年後にひかえて日本美術界の大御所、岡倉天心(覚三)は、アメリカでかわいがっていたペルシャ猫にむけて一通の手紙をかいている*6

…最初のねずみはもう捕まえたかい。おいしかったかな。きっと、りすを楽しく追いまわしているんだろうね。到達不可能なものを追求することには偉大な楽しみがあるものだね。君も私も、驚きこそが至福の秘密であり、理性と共に美わしきものの死もやって来ることを知っているものね。 
 陰険な雌猫どもとは親密にならん方がいいと思うよ―君を理解するふりをして、実はその目にお似合いの爪を持っているだけの、腹黒い連中だからね。雄猫どもと友情を結ぶのも慎重にやりたまえ―たとえ最上の手合いとでもね。連中は苦痛を通じて知り得たことしか君には教えちゃくれないよ。君はー切を喜びの門を通じて学ばねばいけない。勇ましくあれ。勇気こそが命の鍵だからね。決して卑下するな。君の誇り高き伝統を、そして私の所へつれてこられる前に、どなたの保護のもとにあったかを、考えたまえ。


 コーちゃんや、淋しいかい。孤独は君や私よりずっと立派な人々に課せられた運命なんだよ。
 元気でね、                           君の友なる 覚三                        

*1:『建築雑誌』265号、明治42年1月、合本p.4

*2:滋賀重列訳 『建築雑誌』213号、明治37年9月

*3:建築様式の生成過程における表現主体と社会性との乖離というアポリアは、生涯にわたる伊東の建築論の構造を決定したモチーフであった。ごくおおざっぱに言えば、様式は個人の力だけでは生まれるものではないが、さりとて人為を介在させない社会性(=ほぼ『自然』概念に近い世界のとらえかた)のみによって様式成立を語ることはできないという前提であり、この前提は彼の卒業論文『建築哲学』(明治25)においてすでに表れている。これらは人為的領域と社会的領域とを分け隔ててしまう『自然-ありのまま』的な社会観が強固にはたらく地平において生まれたものであることに変わりはない。伊東は以上のような日本的な社会成立観を対象化しないまま、その中になんとか表現主体としての発露を導き入れようと、生涯格闘したように思える。しかしその関係が端緒から「作為」と『自然』という対立項を無理に調停しようとするような矛盾として現れてくるかぎり、それらはどちらか一方のみが時代々々によって比重を変えて強調されるという分裂的な建築論にならざるをえない。彼の「人為」性と『自然』性は以上のように常にきわどいバランスの上において成り立っている。しかし明治30年代までの彼の論の明快さは、空虚な『自然』としての社会を埋め尽くそうとする篤胤的な作為において保証されていたのであり、その点においては『自然』のモチーフはあまり語られることはなかった。

*4:『建築雑誌』282、284号、明治43年6、8月

*5:『建築雑誌』295号、明治44年7月、合本p.361

*6:大岡信岡倉天心朝日新聞社、1985年より再引用、訳は大岡による p.327、328