佐野利器登場

大正9年3月29日、その日は丁度、前年になくなった辰野金吾の1周忌にあたっていた。東京帝国大学構内の山上会議場に参集した建築界のお歴々にまじって、身の丈5尺そこそこのしまった身体つきの男がいた。各人各様辰野との思い出話を披露する中、教授になりたてであった一番若年のその男が、個人的に、と在学の頃の話を静かに語り始めた。

 個人として 佐野利器
…或時は先生の経験論即ち経験を重んずべし、経験を積めといふ御意見に対して公開の席上で、先生の前に於て経験の無益有害なることを弁じたこともあり、また或時は先生の御説として凡て学会というものの会長は斯界の第一人者であらねばならぬと云ふのに対し、私は却て会長はバブリックサーヴェントであると云ふことを論じたこともあります。…其結果或は先生は御晩年には私を忘恩者の如く御考えになりはしなかつたかと私は甚だ恐縮し心苦しく感じて居るのであります、併しながらそれもこれも先生が常に私共を導く言葉として御教へ下された謂ゆる公に熱誠であれ、所信を枉げるなと云ふこと、兎も角之に基いて居ったのであると云ふことを申し上げます。先生の霊に切に御詫びも致し且又御了解を得たいと思ふのであります。*1

この佐野の自信に満ちた言葉に招かれるように、3年後、近代「日本国」建築の正否を占う、本物の大地震が東京を襲ったのである。

*1:辰野葛西事務所『工学博士辰野金吾傳』(非売品)大正15年、文中「付録」内p.37