耐震構造の歴史

前章においては近代「日本国」建築の出発点となった明治期における、建築論の特質を国学の二つの類例、「本居的なもの」「篤胤的なもの」との連関をはかりながら、再構築することをこころみた。その用語法について意識しなければならないのは、それが「日本」的特殊性―「自律」した観念―であり、他律的な「外部―内部」的認識の地平とは異なる位相のものだということである。「本居的」とは、「外部」として規定された論理性を『自然』概念の下に対象化、解体してゆこうとする態度をさしており、「篤胤的」とは、空虚な「内部」空間に逆に論理を構築しようとする態度である。その二つの「自律」するモデルは、論理性をめぐってお互いに対立している。
また技術は本来的には「実用、実利」と同義ではない。たとえば「技術は本来的に中立で、どのような社会にも通用するもの」とするようなとらえ方は、じつは「美術という論理」を相対化するものとしての本居的『自然』概念を、補強する役割をともなった特有の思想である。
1+1=2であるというような、技術的思考の持つ「当然さ」―論理的な完結性―が、逆に積み上げたばかりの人為的な論理を「作為」とし、「内部」の正当性を保証する思想、「実用(実=ほんとうの、用=はたらき)」としてあらわれる。「つまり本質はこちらがわにある」のである。つまり近代「日本国」建築にあっては「自律」的なナショナリズムの構造を保持しつづけるために、両者が意図的なまでに分断された。「技術」は『自然』の方へ、「美術」は「作為、贅事」の方へ集約されるのである。そのような本居的布置の下では「技術」的であろうとする人は、同時に「実用」的にならざるをえない。
この章の前半は特に耐震構造について検証を加えてゆく。耐震構造という技術は、「日本」固有の問題として明治期より意識されていた、ということにまずその特徴がある。それは技術に一定の観念が付着していたということを意味している。僕はここで耐震技術そのもの、ひいてはそれを推し進めた技術者総体を批判することに意義があるとは思えない。ただその技術が「日本」という磁場におかれたとき特有の範例を伴ってあらわれることがある。その「日本」的特殊性がこの章の主要なテーマである。耐震構造自体は現在まで史学にあっても多く研究された分野なので、雑誌引用部分は、主に昭和47年に出版された日本建築学会編集の『日本近代建築学発達史』*1に集められた『建築雑誌』のぬきがきを底本としながら、ここでは特に「自律」するナショナリズムの視点から再構成してゆこう。

■明治期の耐震構造その萌芽
『建築雑誌』創刊の年、明治20年の9月号に文部省より「地震動と構造法」との関係を調査する要請が掲載されている*2。この種の耐震技術に関する記事は目だたないが継続されており、耐震構造の必要性が叫ばれるようになる明治24年の濃尾地震発生以前にその準備段階として、しかも政府主導によって展開されていたことは興味深い。
その濃尾地震を契機として、政府勅令によって震災予防調査会が明治25年6月に発足し、建築学の分野から辰野をはじめ3名が委員となった。
同会では明治13年に外人技師J・ミルンの提唱によって結成された、日本地震学会の研究をひきつぎながら、震災を軽減し予防することが課題になった。建築史家村松貞次郎は、それ以後の研究の特質を、以前の煉瓦造一辺倒から脱却して木造構造の合理化にまで及んだこととし、それは丁度建築学が外人教師の指導を離れて日本人学者に主体性がもたれるようになった時期と軌を一にしている、という*3。この時期において耐震学にはすでに一定の思想が付着していると見てよいだろう。
なぜなら外人技師が率先していた日本地震学会にあって、その研究は調査及び理論的研究を通じて地震学を推進するというような基礎理論の追求であり、家屋に対する耐震上の方策も、木造よりは煉瓦造が優れているだろうというようなごく大ざっぱな築造法の分類に従属していたのに対し、ここでは「日本固有」の木造の見直し、そしてその言及は明らかに「構造」という「美術装飾」に対置された分野に突出して収束しはじめるからである*4
雑誌『建築雑誌』における耐震に関する記事は濃尾地震以降、急速に増加する。伊東忠太は、煉瓦造が地震に脆弱であってかつ「本邦特有ノ木造家屋」が震災の被害を免れたからといって、煉瓦を廃止せよと喚呼するような世論が正しいとはかぎらないという主旨のことを述べているが*5、ここにあらわれた世論などは、当時の基底にあった『近代「日本国」建築』的な心情を表現しているものだろう。

■新技術の移入過程

…耐震構造という日本独特の要求が早くから自覚させられたため、石造・れんが造の耐震補強材として鉄が多用され、さらには鉄骨石張りや鉄骨れんが壁といった、外観はあくまで様式建築に留まりながら、内側で鉄骨に習熟する方向へと進んでいった。*6

ここでは以前の研究者による、鉄骨の移入過程の特質が語られているが、興味深いのは鉄骨が耐震的見地から用いられたこと自体にもましてその用法の特殊性である。外観はあくまで様式建築にとどまりながらも、その内部に「様式」に対置するかたちで内在的に成熟してゆく経過をたどった鉄骨は、「用vs美の二元論」を補強する役割を有していたといえるだろう*7

図2-1 東京裁判所(明治二九年)、ごく初期の鉄骨使用例。純然たる様式建築。(『明治大正建築写真聚覧』建築学會発行、昭和十一年より)


また鉄筋コンクリートは、欧米と比べてもわずかに遅れるのみの早い時期に注目されている。前掲の『日本近代建築学発達史』*8によれば、明治15年に最初のコンクリートに関する論文が発表されており、その耐震性が優れていることを知られるようになった明治30年代には多数の紹介文及び論文が発表されている。その耐震性を見極めるために気鋭の構造研究者佐野利器は、明治39年4月のサンフランシスコ大地震の視察をおこなった。彼は鉄骨、鉄筋コンクリート造の優秀さを目の当たりに実見して、これこそ「主義に於て既に余の耐震的理想に一致」*9した構造、であることを確認した。次いで明治44年その最新理論を学ぶため、彼はドイツに留学し、ドイツ帝国の強力な国策推進ぶりを見て魔物にとりつかれたようにあの決起の書「建築家の覚悟」を送りつけた、というのが大体のストーリーである。

耐震的見地から導入を図られたこれらの新技術導入の過程に関して、これまでの史的定義は次のような言葉に代表されるだろう。

ところで、こうしてみると、日本の建築構造技術の進展がいかに急速をきわめたかが、あらためて思い知らされる。濃尾地震がその直接の契機であったとすれば、それ以来、わずか二○年の間に一応耐震高層建築が実現するほど、この方面へ注がれたエネルギ−は大きかった。これと全く同じ期間に、前述したように様式模倣が熱心に行われたのであるから、この二つの方向、すなわち「意匠と構造」あるいは「様式と技術」は、この時期の建築家の活動の両側面を形作っていたことになる。…
建築家の名において、技術と様式の双方が扱われたとしても、明治を通じて、両者はついに融合し結び合うことがない。むしろ全く無関係な領域であったからこそ、同一の建築家によって、あのように同時に推進されたのであって、この両者を摂取する共通の基盤となったのは、初期的な合理主義、あるいは技術主義とでもいうほかはない。稲垣栄三『日本の近代建築ーその成立課程』(上)*10

たとえば佐野利器が設計した明治42年竣工の丸善書店は、日本最初の鉄骨カーテン・ウォールでありながら外観は一般の煉瓦組積造と変わりがない。それに象徴されるような強固な「用vs美の二元論」の保持は、近代「日本国」建築の特殊性とでもいえるべきものだが、その特殊性を、稲垣の説明にみられるような、各移入技術分野の相互的な連絡の断絶でいい表すには不十分と思われる。ヨーロッパにおいても分離された各分野があらかじめ断絶されていたとみるのは可能であり、問題はその後の過程がヨーロッパでは各分野の交通によって近代建築運動が生まれたとされていることに対し、日本においてはその交通を不可能なものにした特有な構造が存在することなのである。つまりそれが、技術が「実用」に規定される、本居的な構造である。

*1:発行丸善株式会社、昭和47年。以後KKHと略記する。

*2:『建築雑誌』第9巻、合本p.125の「本会記事」参照のこと。

*3:建築学体系』37 建築学史 建築実務、昭和37年、p.118を参照のこと。

*4:例えば「家屋改良論」『建築雑誌』一号、明治20年、における「構造」の用語法には明らかに耐震的な意味が含まれている。また「震災予防調査会報告第一号」明治26年11月、における事業目的の建築についての項目はすべて「構造」に関するものである。

*5:地震と煉瓦造家屋」『建築雑誌』59号、明治24年11月。KKH、p.1561

*6:山口廣「欧化主義の時代」KKH、p.1561

*7:その例として稲垣栄三『日本の近代建築ーその成立課程』では、1896年竣工の妻木頼黄設計の東京裁判所を挙げている。p.143

*8:KKH、p.1564

*9:佐野利器「米国加州震災談(三)第三章鉄筋混凝土」『建築雑誌』241号、1907年1月を参照のこと。

*10:p.151〜152