「構造派」とは

近代「日本国」建築にあって、それ総体のゆく末を決定した、俗に「構造派」と呼ばれる一定のベクトルを持った人々がいた、とされている。彼らが日本の耐震構造をつくりあげたと同時に、現在でも強固な建築制度の大枠を規定した。彼らの大半は「建築家」に対置された意味あいをもつ「技術者」と呼ばれる人々で、実はそのような呼び方も彼らが規定したといってかまわないだろう。あるいは彼らがどう思おうと事態は勝手に決められたレールを進んでしまったというべきだろうか。
建築において「技術者」が、ここ日本の風景を現在のような状況にまでおしあげた業績を適切に評価すると同じく、僕たちはその反面において、彼らの営為が近代「日本国」建築の生産システムに特有の奇形的な構造を残存させる結果となったことをもあわせて知る必要があるだろう。その時、技術者は「実用者」に疎外される。
「構造派」の歴史はそのまま大親佐野利器の歴史である。彼によって技術者が、「自律」するナショナリズムの一端を担う部分として形成されたということができる。その特質を把握してゆこう。