佐野利器を通して

前章の最後にその一部を掲載した論文「建築家の覚悟」を執筆した佐野利器は、伊東忠太より10年遅れて、明治33年帝大の建築学科に入学した。そのころの授業は意匠教育に重点がおかれており、「形の善し悪しとか、色彩のことなどは婦女子のすることで、男子の口にすべきでない」と考えていた佐野は、「何の科学的理論もない」建築学科に失望し転科のことを考えていたのだが、ある日辰野が授業の合間に耐震構造の不備をなげいたことを聴いて、生涯の仕事を発見したという逸話がある*1明治37年に『建築雑誌』にデビューを果たした後、明治期の彼の発表記事はそのすべてが耐震構造、あるいは構造力学に関係している点で特徴的である。それらのもつ終始一貫した科学的思考は、「美術」的記事の多い中、突出した存在だといえるだろう。当初「佐野遅飛(ちび)」というペンネームで連載していた彼にはいまだ匿名的な一技術者という印象を持つ。やはり当論における佐野利器は、明治44年の「建築家の覚悟」という事件的な論文より始まる。そして大正期から本格化する彼の仕事は年ごとに加速度をますかのようにその領域を拡げていったのだった。

*1:『佐野博士追想録』佐野博士追想編集委員会編発行、昭和32年、p.6を参照のこと。なお佐野の伝記的な部分は主にこの本を用いた。