外観についての無関心…ものいわぬ規範

■外観についての無関心
「構造技術者だから外観に言及しないのは当然だ」という考え方がある。しかし「当然」とはいったい何なのだろう?

…建築美の本義は重量と支持との明確なる力学的表現に過ぎない事と思はれる、「スタビリティー」と云ひ落ち着きと云ひすわりと云ひ或は釣合であるとか言っても要するに力学的関係を述ぶるもので有って重量持放の力学関係を最も明確に表現することが即ち建築美の根本で有って此点に於ては古今も東西も差略のない事で有らうと思う、佐野利器(「我國将来の建築様式を如何にすべきや」における発言)*1

明治43(1910)年における佐野のこのような思考が、たとえば同じような志向を持っていたウィーンの建築家A・ロースの論文『装飾と罪悪』(1908年出版)と比べても、ほぼ同時期に獲得されていたことは注目すべきだろう。

オーナメントが労働者に加える損害はますます大きくなる。装飾はもはや今日の文明の当然の産物とはなりえないのだから、装飾は今後、遅滞と堕落のしるしとなり、それを作る人の労働は十分には報いられない。『装飾と罪悪』*2


図2-2
佐野利器設計による日本初の鉄骨カーテンウォール建築、丸善株式会社(明治四二年)。様式と新技術が並存(『明治大正建築写真聚覧』建築学會発行、昭和一一年より)。
b A・ロースによる同年代の建築設計例、シュタイナー邸(1910年)。様式を壁面から一切排除している。


A・ロースと「建築家の覚悟」における佐野は、両者とも折衷様式への批判を徹底し、建築のよるべき規範を社会性あるいは経済性に求めるなど、共通する点が多い。ところがロースがほぼ完ぺきなまでに装飾を否定したのに対し、佐野の「科学的思考」が折衷美術派を半殺しのまま残存させ、「用vs美の二元論」を保証する方向に流れたのは興味ぶかい。そこでは「建築に主体的に絡むこと」、いわば「作為」の世界をすべて「美術」に回収することによって、自らを「無作為」「ありのまま」という、判断中止の領域にしたてあげることが可能である。そのとき本居的な「自律」するナショナリズムが、堅固な体裁を伴ってあらわれたということができる。ロースにとって科学はゆたかなミューズであったかもしれない*3、しかし佐野にとって「科学」はどこまでいっても「当然のこと」でしかない。「外部」は「作為」として相対化され、「内部」は「構造」として定位される。
稲垣は現象的説明で終っているが、当時の様子を次のように説明している。

新たに登場した鉄とコンクリ−トという中枢資材は、建築家にとっては、希望であると同時に大きな負担でもあった。鉄筋造や鉄筋コンクリ−ト造が構造的にすぐれている点はしばしば立証され、その意味でこの新構法は推進されたのであるが、同時にもたらされた構造の自由さ、どのような外形も可能であると考えられた自由な構造が、かえって意匠的には負担を重くしたのである。…模倣を否定し構造的な合理性をよりどころにしつつ、結局は明治時代に培った方法をもって、大正の「近代建築」をつくらねばならないのである。震災前の新構造は数少なく、いわばいずれも技術的には先駆的な意義をもつのであるが、その現れた形は煉瓦造の継続とみなしてよいものである。…合理主義のもつ理論は、こうした傾向を否定することができなかったばかりでなく、かえって理論的な根拠を与える結果となった。*4

論理とは、関係するために限定された構築の場を創り出すことだとすれば、しかし佐野の「構造」は想像をたくましくすれば、ちょうどイタリアのデザイン批評集団、スーパー・スタジオの描き出したグリッド空間の悪夢のように完結せず、あたかも『自然』のように水平的に広がることも可能である。佐野が「構造」としてつくりあげた新技術は水晶宮アインシュタイン塔ではなく、あくまでも、柱と梁を強固なグリッド状で無限につなげることのできる、連続多層ラーメン剛節軸組構造だったのである。
ここに現代日本の極端な「技術(実用)志向」を保証する論理構造がすでに存在している。

建築界に君臨し之れを指導していく者は経済を本にした建物でなければならぬ、即ち商業区域の建物と云ふものが将来に於ける建築界に君臨するのであらうと思います、之れを実現して居るのが亜米利加である、…即ち如何にして最も限られたる地面に最も密集して最も実用的の建物を美しく安全に造らうか、…既に此の解釈に努めているものは亜米利加の商業区域の建物であります、亜米利加のスカイ、スクレーパーが燐寸箱と言はれたのは既に過去の事であります。佐野利器「現代欧米建築の趨勢」大正3年7月*5

佐野は、ここで当時世界一の高さであったウールオースビルのブロンズ、大理石、テラコッタで構成された壮麗な装飾を例にだして、もはや単なる「燐寸箱」ではない「実用的の建物」時代の華々しい到来を告げる。しかし彼は、たとえばシカゴのリライアンスビル(1895)*6の外壁をとりかこむテラコッタ装飾が、内部の鉄材を保護する技術的役目をも持ちあわせていた存在であったことは、看過してしまう。
「装飾」に対置された無限定な「内部構造」は、内在的にすべての建築体に存在することができる。もはや「美術」は単なる贅事に過ぎない、外観などは「内部」を脅かすものではなくなったのである。「構造派」は外観に無関心になった。「構造技術者だから外観に言及しないのは当然だ」という思考がある。しかし、それは当然ではないのだ。

それから10年ほど後の大正14年、構造技術界の片翼を担っていた内藤多仲は次のように言っている。

耐震構造ということは、単に構造上の問題ではない。間取りを造る其人は充分に耐震構造を解さなければ、間取りを造ることはできない。同時に形を造る所の人はその形の中に包まるべき所の骨組が如何にあるべきかということを充分理解しなければ、その形はできないものであらう。「耐震構造に関する一考察」*7

『日本近代建築学発達史』の一編者は、ここで内藤が「構造家」と「間取りや形をつくる人」とを明白に区別している点について注意を促している*8。佐野をはじめその後輩に当たる内田祥三、内藤多仲らによる鉄骨剛性架構の技術や計算方法が規定される頃からその流通にともなって、例えば東京海上ビル(大正7年)や日本興業銀行(大正10年)などのように意匠と構造を別の人間が担当することが多くなってくるという。しかしそのような大正後期からの状況を近代の「必然」的な流れとかたづけてしまうことは適当ではないだろう。それ以前に本居的布置との深い連動としてみることが、近代「日本国」建築を新たにとらえる重要なキーであるように思える。職能分化の展開は「構造派」の勃興した大正期以来の特質なのだ。

■ものいわぬ規範
「構造派」のつくり上げた構造は、堅牢でありながら、構造的に決して完結しない自由さを持ちあわせているのが特徴である。その特徴は実際にあっては「建築設計の創造力の中に吸収されるものとしてでなく、「折衷的建築」にも「近代的建築」にも用いられる便利な手段として作動した」*9。つまりそれは、全ての建築体の内部に存在する可能性を有し、且つ「外部」との非交通を保持するものであった。その状態は「実用」としての「内部」が、いはば「精神」として建築全体を統括する構造を生みだす。そのときから「構造」はものいわぬ規範となって機能しはじめる。佐野が後に建築の様々な分野で法制化を試み、「建築警察」の必要性を説いた必然性もその論点からうまくまとめることができる。
大正4年に発表された、日本の建築構造学の基礎を築いたものと評価されている、佐野の「家屋耐震構造論」*10は、震度の概念を導入することによって、これまで不揃いであった耐震構造学をいっきに統一した*11。これによって近代「日本国」建築の主体構造となった剛節矩形骨組みは、最もその論に合致するものであると正当性が与えられると同時に、「家屋耐震構造論」は大正8年の日本初の本格的な建築法制度である「市街地建築物法」を作成するときの唯一の論的根拠として迎えられ、施工規則によって法的な規制力を与えられたのである。

*1:『建築雑誌』282号、明治43年6月、合本p.252〜を参照のこと

*2:Adolf Loos,1870-1933,"Ornament and Crime"、中村敏男訳、『SD』32号、昭和42年7月、p.47

*3:「私たちには芸術がある。…オーナメントを欠いていると、オーナメントのない芸術は想像もしないような完成の域へと押し上げられていく。…今日、ビロードを着て走りまわっているのは芸術家などではなく、おとぼけ野郎かペンキ屋だ。…つまり近代人はオーナメント以外のことに彼自身の創意の力を集中するのである。」(前掲に同じ)p.48

*4:前掲の『日本の近代建築ーその成立課程』(下)、p.227〜228

*5:『建築雑誌』331号、合本p.361

*6:設計バーナム・アンド・ルート事務所、いわゆるシカゴ工法のパイオニア的存在。基本データは『建築20世紀』上、新建築社、1991年、p.47参照

*7:『建築雑誌』475号、大正14年10月、KKHより、p.1588

*8:前掲p.1588に同じ

*9:前掲書、p.1589を参照のこと。

*10:震災予防調査会報告第83号甲・乙、1916年

*11:建築学体系』37 建築学史 建築実務、昭和37年、p.119、参照のこと。