「社会的責任」の誕生…日本資本主義の展開とその諸問題の諸問題に対処しようとする姿勢

「建築家の覚悟」で、佐野が国家に奉仕する必要性を説いた頃から、建築家の社会的責任という概念もまた明確に意識されるようになる。
最初期より行われていた建築学会の講演会は、大正5年より佐野の提唱によって合同講演会として統一テーマを決定して発表するという形式になり、10年までそのスタイルが続く。大正5年ではテーマの中に「建築の社会的責任」が含まれている。この時期において佐野のといた社会的責任の特質は、明治末からの日本資本主義社会の発展とともに生じてきた緊急の問題に対処しようとする態度であった。
大正期は国家近代資本主義が以前の村落共同体の生産体系をつき崩し、政府を頂点とする近代政策に再編してゆく過程としてとらえることができる。19世紀におけるイギリスの工場労働者の悲劇が同様な形でくりかえされ、新たな共同体をもとめて新興宗教団体が多発し、農村を追われた人々が都市に流入し、東京においても四谷、上野、谷中などいくつかの地帯にスラムを形成しつつあった。その社会的状況にあって、建築家の責任はいきおい都市問題と都市住宅問題として把握される。
建築学会の合同テーマは、大正5年が「建築に関する論談」、大正6年が「鉄筋コンクリートの亀裂」、7年「都市計画に関する講演」、8年「住宅と都市」と急速にそのテーマの領域を広げていった。
その実際の活動を見ると、圧倒的に「構造派」主導といえるだろう。明治の美術的建築家は時代オクレの「美術」という出島の中からアタフタと見守るばかり、後藤慶二ら一元論的建築論者は実践的な方法を提出しない。おそらく大正期、そのバランス感覚においてひいでていた岡田信一郎でさえ、後年は「美術派」に急速に収斂してゆく。新しい「可能性」は本居的布置における「外部」に回収されていくのである。「構造派」の造り上げたグリッド空間だけが圧倒的に開かれた場を生みだしていた。
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図2-3
建築学会の合同講演会一覧、大正六、七年を境にした「建築」をとりまく言説の変化に注意。(『日本近代建築学発達史』より)