その「内部」的特質

つまり自らが閉じることによって「外部」を規定する、そのような性質の「自己創造」は対置的な状況のみに、激烈なかたちをともなうことができる。

我々は起つ。
過去建築圏より分離し、全ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。我々は起つ。
過去建築圏内に眠って居る総てのものを目覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
我々は起つ。
我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同、右を世界に向かつて宣言する*1

山崎の「敗北」と同年の大正9年、「分離派建築協会」という卒業を目前に控えた帝大生のグループが「自己」を武器として設立され、華々しく散っていったことは近代「日本国」建築の転回点として語られてきている。

■状況的な閉鎖性
たとえば分離派のメンバーであった石本喜久治は、「芸術家」としての建築家と、「構造派」との画然とした区別を求めている。

ところで、建築は立派な芸術であり、詞であるから、自分の感情、信仰が建築のリズムに現れる、従って必ず詩情を持って、設計に取りかからねばならぬ。然るに建築家、建築専門家と云つても種々あつて、普通の建築家は主に材料の強弱とか、予算見積とかの算数的の頭が働き、様式は何々、構造は斯々と云ふことなどを考へ、理論上の便利な設備などは十分に行き届く設計は出来るであらうか、これだけでは、真の建築はできまいとは素人でもいつている。…誠に悲しむべき悪傾向がわが国建築界に横溢してゐるのである。換言すれば所謂構造派横暴時代なる現象を呈し、何等の創作的才能なく、詩情を有たずして、只に構造学の智識のみを以つてよく建築家たり得べしとなし、構造そのものが建築であるかの謬見を懐いて、彼の構造万能論を唱える愚衆を余りに多く見るのである。…両者の領域に截然たる区画を設け、各々その一部を専攻分担することの便利を惟うのである。「帝大建築科の現制を論じてそれが根本改造に及ぶ」*2

彼らを後藤慶二らの一元論的立場を継承するものとすると、これらの言説は敗北宣言である。しかし反面では、逆に自らの領域を閉じることによって、批判すべき対象物としての「外部」をつくりだすことを目指していたかのようにもきこえる。それは佐野ら構造派が「美術」に対したことと同様の二元的な手法であり、一元化を標榜した後藤らとは立場を異にする分離派の特質があった。

■「自己」という新たな場…閉じられているがゆえの飛躍
分離派が批判対象と見なしたのは、彼らの激烈な「構造派」批判からもくみ取れるように、「用vs美の二元論」としての近代「日本国」建築の状況そのものであったことにある。つまり「自己」と「社会」という対立概念を援用して、「外部としての社会」側に近代「日本国」建築のひきずってきたナショナリティー総体を放り込むことによって、その状況をタナ上げする「自己」という離脱回路を構造としてつくりあげた、といえるだろう。「分離」という言葉はその意味において、実に鋭い形容だった。
「自己」という概念は、「社会」に対置されることによって、その根本を問う類の批評装置として機能する。例えば堀口は、「日本」的構造学の在りようについて、「構造学は構造するためにあるのであって構造学があって構造があるのではありません。現今の構造学に執して建築非芸術論を唱へるある種の人々は其の本末を転倒したものです」、つまり日本的な「構造学は実に功利的必要さを引きくるめて」建築表現に対立するものだと、的確な判断を加えている*3
また「社会」と「自己」とを腑分けするその手法は、社会的なコンテクストから一回遊離した状態で、新たに再構成をうながす実験場として機能する可能性をもっている。それは分離派以降の建築運動の前提の場所をつくりだしたものとして画期的な意味をもっていた。例えば堀口は同様の主旨を、彼らが分離しようとした伝統が何であるかを明らかにすることで語っている。

又ある立脚地からは芸術は伝統を離れては存しないと云ひます。現代の建築は過去の建築を離れては生まれて来なかったに相違ありません。…私等が分離しようと云ふ伝統や過去建築圏は此意味のものではないことは論をまちません。私等の内から出て来る伝統でなくて後から小悧巧さから附け加えられ私等を束縛する伝統的惰性を云ふのです。堀口捨己「芸術と建築との感想」『分離派建築会作品集2』大正10年

■「真なる自己」
大正9年7月、東京日本橋白木屋で開かれた第1回公開展覧会によって、分離派はその正否を「外部」から判断されることになった。たとえば建築家岡田信一郎は、彼らの「芸術」的な姿勢についてやや好意的に評しているが、構造や、岡田自身にとっては近代化の指標としてもあった間取りが軽視されていることを批判する*4。またその翌年の第2回展覧会の直前に、当時最大の分離派批判者であった野田俊彦は、分離派の芸術が、建築を建てるという行為自体をとらえる総合的な視点であることに姿勢として評価しながらも、実際的な建築行為に介入する事柄との乖離を彼らが認識しないことを牽制している*5。これらを当時の分離派に対する正当な批判として読むことはできる。ところが分離派にしてみれば、とんだ見当はずれであり、「社会性の放棄」、そして「主体の絶対性」こそが、我々の出発点そのものなのだ、と言うこともできるのだ。堀口は前掲の文中で次のようにもいう。

分離と云ふ意味が只芸術を死枯しようとする総ての鋳型や形式と表現を拘束する踏襲より分離する意味である以上分離派は一つの様式の名ではありません。如何なる様式の芸術も如何なる流派の芸術も創作されたものである限りに於て包含します。それが自然派であらうとロ-マン派であらうと象徴派であらうと、又印象派であらうと表現派であらうとそれを容れ得る性質から出発した運動であります。

ここでは「真なる自己」から導き出された、「創作(創造)」の絶対性が語られている。堀口は「創作」であるならば自然派であろうとローマン派であろうと象徴派であろうと構わないと言う。ここに「自己」意識の反転的な拡大、と同時に収縮の萌芽があるように見うけられる。
つまり拡大とは、「自己創作」を判断中止の領域におし上げることであり、収縮とは「真なるもの」思考同様の、そのニヒルな求心性に導かれた「自己」概念の言語領域における相対的な弱体化をしめしている。
分離派の作業は、社会的ではありえなくなった「美術」が、そのつき崩されてゆく過程の中で発見した「主体性」を、裸のままさらけ出すことによって最後の審判を問うものであった。しかしそのような疎外された概念としての「主体性」が、態度そのものとして存在することはない。忠太が示したような主体的と表現される態度はあり得るが、アプリオリな「主体性」は存在しない。「自己」が裸のまま自立することは、「自己」の内実は単なるカラッポの不可侵領域に過ぎないことを自ら暴いてしまうだけであった。「何でもいい」ということは「何もいっていない」ことに等しい。
「構造派―本居的なもの」はそのニヒリズムを逆転したが、分離派がアプリオリなものとして規定された「自己」を遵守しようとしたとき、「自己」は「社会」との交通を意識の上で断たせる二重の監獄になりかわる。そのとき分離派は「分離派」という名称だけを残して、自らの日本的状況に可能性を狭めてゆくのだ。

■解決されないナショナリズム
「自己」という新たな位相はナショナリズムをタナ上げしたが、根本的な解決をもたらさなかったことはいうまでもない。むしろ、解消されないナショナリズムは外在的なレヴェルから内在的な問題の場に移行されたことによって、より切実に意識された。
例えば分離派の象徴的存在でもあった建築家、堀口捨巳は西欧留学中、ギリシャの朽ち果てた神殿の前に転がっているアーカンサスつきの柱頭を見て、ヨーロッパの建築をつくることの困難さに絶望し、「日本的なるもの」に目を向けさせた端緒となった逸話は有名である。しかし彼の「日本的なるもの」とのつきあいは、「外部―内部」的二元論の批判という本稿の観点からだけではとらえることのできない可能性を持っている*6。ここでは、もっとあからさまなあり方を提出してみよう。

■「私性」から「神性」へ
「自己」概念の拡大と解決されないナショナリズムの超克は、大正8年に発表された坂東義三の言説にあらわれている。彼は分離派の成立以前に、たった一つの論文によってそれら「自己」と「日本的なるもの」との往還が如何に反転的に関係づけられえるものであったかを示している。

…ただ生きて行くと云ふ生活は、無限の寂寥を私の胸に打ち込まずには居られなくなった。
 まことに悲哀は私の凡べてである、寂寞は私の世界をとり巻く大気である。しかしそこに新らしい一つの力は漸く私の衷に湧いて来た。私はそこに、自分の生活を押し進めていく一つの力を自分の中に創造することが出来るやうな気がする。
 その一つの力とは何であるか。『自己の真実に生きればよい』と云ふ。然らばその自我の真実もしくは本然とでも云ふか、これが一体何であるか。これが新たに湧きたった問題でなければならない。坂東義三「創造の根源」*7

ここに見られるような「自己」概念の拡大、絶対化は、最終的にそのものの意味をカラッポにしてしまうことは既に述べた。論理的な分離派は、はやそこで立ち止まって新たな展開はみせなかったが、坂東は「社会」を「自己」にアイデンティファイさせようとする。

今や吾人は、哲学的、若しくは神学的の名辞をもつて抽象的に、自然だとか、人生だとか、生命だとか、永遠だとかを考えて居た頭を一転して、げに生命そのもの実相に接しやうと努めた時、自我そのものの真の姿を見んと努めた時、そこに恐らく吾人は、絶大なる驚異に共鳴せずには居られないであらう。
歴史と云ひ、人生と云ひ、国家と云ひ社会と云ふ。これ皆生命の活躍する舞台ではないか。…只、生命は不断に成長する、不断に発展する不断に新しいものを要求する。かくて彼れはその何等の形式のない、何等の色彩のない、何等の内容のない、ただ一つの力から―生の力から―不断に新しいものを創造する。不断に新しい事件を演出する。
 人生は一つの工場である。一つの劇場である。
 人は一の職工である。一の役者である。
 不思議なる生の力!一切のものを生む根源にして、而かもそれ自らは何者も有って居ない、永遠に神秘な無形式無内容の一種不可解の力!

「アイデンティファイ=同一視」という概念は、アプリオリな存在と認識されてしまった「自己」の地平なくしては導きだされない。
坂東においてはもはや「自己」は「内部」であり、丁度、篤胤が試行したように、その空白にアイデンティファイという回路によって「外部」をどしどしとりこんでいる。ここではもはや「自己」は、無から有を創りあげるもの即ち、「神」と同一である。

そしてその力は無形より有形を造り、無内容より充実を造ることを知って居るのであるそれが即ち創造である。彼れは先づ自己の生体内に於て創造をして居る。それは最早吾人の意識には上がってこない無意識的の領分に於て幾多の創造をして居る。それからまた彼は自己の生体以外の物質を持って物質を支配し、使用し、指導して、自己の真実を表現する。即ち物の中に自己を創造するそこに自己の真実の誇がある。かくて建築が成り、芸術品が産まれ、もしくは社会的事業が成り、国家的組織が成る。

ところが本来的に虚無的なその「神」は、あらゆるものを吸収しながらも、いつまでも空虚である危機的状況を生み出す。そのような「自己」の危機を回避しようとするときに、本居的な『自然』はスルッと混入される。それによって「自己=作為」そのものの否定をうながし、無規定に彼を取り囲む「集団」「民族」を受けいれる思考がかたちづくられる。それは外ならず、篤胤的な負の側面の持つ「内部」の作為的な絶対化、いはば「国体論」と同様の展開である。

こうした考えから更に建築の現代思潮について考えて見たいと思う。
生命は縦に時間的の持続であると共に、横に空間的にも不可分割の幅を有するものである、さらば吾々の間には自然に集団と云うものが生ずるものである。そしてその集団の成員の間にも、おのずから不可分割的の生命の広がりと云うものが出来るものである。勿論その間にも自己を意識している、自己の真実に生きて居る。吾々の個性は充分そこにも発揮される、而かも吾々の孤独の思想や生活には入ってこない、集団としての一色彩を有するものがある、そのときの吾々の生命は最早自分一個のものではない、自他一連の一体である時代思潮も民族性もこの種の生命の姿であろう。
吾々は日本民族である、そしてその国民性は日本国土に於ける我々の特性である。生命は進化する、自然淘汰と適応が現れる、そして時代に推移を与える、だから吾々の国民性は前時代のそれとは明に別物である。

このような地点から建築の時代思潮を語るとき、「自己」そのものの融解により、「神」として現れた「日本」に彼はひざまづかねばならない。「私性」は「神性」となったのである。これは特に次章で詳しく追求してみる必要があるだろう。

昭和31年12月5日、巨人佐野利器も永眠の途についた。翌年刊行された追想録に、前川国男はこう記している。

考えてみれば楽しい学生時代でしたがまたずいぶん諸先生にはお世話をかけ、ことに佐野先生にはいつもつまらぬ議論を申し上げては手ひどく叱られつづけた私でした。ある設計製図に、先生の御講評の時、例によってきつい御叱りをうけ、「これはまさにキョウタイである。おまえは将来警戒を要する」といわれて例のお口を、キっと結ばれた。私はトッサにこの「キョウタイ」という言葉を解しかね、恐る恐る「キョウタイとはどう書くのでしょうか」とお尋ねしましたところが、先生は泰然として「ケモノへんに王」と言い渡され、まわりにいた悪友どもをいたく喜ばせる仕儀となりました。

僕は佐野のことを悪く書きすぎたろうか、おそらくそうだろう。「憧憬」という言葉は本稿にふさわしいものとは思えないが、佐野の活動を支えたものは、外ならず、日本という「ふるさと」への憧憬であった。ドイツという異国で彼を襲った「日本」の存在自体への危機感は、一生涯彼を奮い立たせたろう。「日本」がなくなれば俺はない、そして見事にそのおもいは結実した。ただ相思相愛がなかなか実現できないように、「日本がなくなってもボクはいるよ」、こう呟いてみたのが分離派であった。しかしそれらはどちらも「日本」のなかではサッド・エンディングであることを免れてはいないのだ。それらは継続的な新しさを生み出す概念装置にはなりえなかったのだから。

丁度2.26事件の最中に、また私の一身上の件で種々ご心配を頂いたにも拘らず、多少信ずる所あって先生のご厚志にそえぬむね暮夜先生の御宅に伺って衷情を披露しましたとき、さも困った奴だなという表情で「まあやむを得ない。ラジオを聴こう。」といわれて、折しも放送された戒厳指令官の「兵につぐ」の布告を先生と二人きりでシンミリと聴いたわけです。布告を聴き終ったとき「馬鹿な奴らだね」とポッツリいわれた御言葉は青年将校にいわれたものか、それとも傍らにかしこまった私にいわれたものだったのか今もってハッキリしない次第であります。

僕にはどうもこの話が中野重治の転向小説「村の家」に、そして前川が主人公の勉次に二重映しになってしょうがない。吉本隆明にいわせれば、転向的でありながら、転向の対局にある態度という。前川が信ずる所あって厚志にそえぬ旨を、佐野の家に訪ねにゆくように、主人公勉次が、転向出獄後、村の家にかえって、父親の孫蔵にたしなめられる描写がある。

お父つぁんら何も読んでやいんが、輪島なんかのこの頃書くもな、どれもこれも転向の言訳じゃってじゃないかいや。そんなもの書いて何するんか。何しるったところでそんなら何を書くんか?今まで書いたものを生かしたけりゃ筆ァ捨ててしまえ。そりゃ何を書いたって駄目なんじゃ。今まで書いたものを殺すだけなんじゃ。「村の家」

…平凡な庶民たる父親孫蔵は、このとき日本封建性の土壌と化して、現実認識の厳しかるべきことを息子勉次にたしなめる。勉次のこころには、このとき日本封建性の優勢遺伝の強靭さと沈痛さにたいする新たな認識がよぎったはずである。すなわち「村の家」が、転向小説の白眉である所以は、主人公勉次と、父親孫蔵の対面を通じて、この日本封建性の実体の双面をなにほどか浮かび上がらせているからであり、「お父つぁんな、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ。」という孫蔵に対して、「よく分かりますが、やはり書いていきたいと思います。」と答えることによって勉次があらためて認識しなければならなかった封建的優勢との対決に、立ち上がってゆくことが、暗示せられているからである。「転向論」*8

前川は内心、佐野の言葉は青年将校にも自分にも向けられていたであろうことを直感したはずである。

…かつて「日本趣味的建築」論争の華やかであった頃、或建築家は昂然と言い放った。「如何なる形をも可能ならしめることが建築構造の妙味である」と。
しかしながらかくの如き議論こそは、技術を単なる方法論と考える迷誤と断ざるを得ない。…建築構造も最終目的たる「建築」を忘れて単なる方法論的技術に安住することは許されない。
前川国男「建築の前夜」*9

*1:『分離派建築会宣言』大正9年、NSBp.126

*2:『建築世界』大正9年1月号、p.36

*3:「芸術と建築との感想」『分離派建築作品集2』岩波書店、大正10年、NSBp.148~155

*4:「分離派建築会の展覧会を観て」『建築雑誌』406号、大正9年9月、合本p,408

*5:「建築と文化生活」『建築雑誌』416号、大正10年6月、合本p.293

*6:二元論を克服する、堀口の弁証法的な性格については志柿敦啓「堀口捨己 1930年代の方法論的視座とその特質」93年度日本建築学会大会梗概に詳しい。

*7:『建築世界』大正8年2・3月号、NSBp.103~111

*8:吉本隆明著作集』13政治思想評論集、勁草書房、昭和44年、p.13

*9:『新建築』1942年5月