分離派までの系譜

大正期の同僚の建築家から天才といわれていた後藤慶二は、大正8(1919)年病死した。彼の仕事に代表される大正初期の特定の思考をもった幾人かの建築家がいた。

鉄筋混凝土(註:コンクリート)の様式を選定するに当たって、第一に感ずることはこの材料の極めて自由な特性である、然しこれを以て直ちに木造の手法を模し、或は石材の手法を模せんとするは畢竟虚偽であって遽かに賛成し難いところである、その材料の特質を特質としその真を発揮せしむるに充分適切な手法を選んで、全体の構造が一の有機的組織の下に統一せられた場合に始めてその建築様式は吾人の美的意識を満足せしめ、美的感受心に食い入ることが出来る、建築の美は自然力に基礎を置いて、自然力を征服するところの体材の威力にある、これを内的にみればこれらの体材の意識的操縦に結果するところの美的表現にある、然しその表現は構造に準拠すること論をまたない。後藤慶二「鉄筋混凝土に於ける建築様式の動機」大正3年11月*1

こう後藤が言うとき、佐野の獲得した合理的思考と同じ場所に立っていることが理解できる。佐野が折衷美術を「贅事」としたように、後藤も又それを「虚偽」と表現する。また国学的『自然』あるいは「実用」を、「対立物を相対化するはたらきをもった新たな場所」とまとめるならば、後藤のテーマであった「真」、「適切」、「美」という建築的理想もまた、それと同様の役割をもっていた。しかし彼らは全く相反する方向へ導かれていったように思われる。

■「真なるもの」の特質…『自然』との差異
後藤らが論理化しようとした建築の一元的把握は、「適切さ」「美」あるいは「真」という言葉の下にある。しかし「真なるもの」という言葉が、対立する「虚偽」がなくては何も指し示さないように、その価値は、他律的に規定されざるをえない。しかし「真なるもの」という言葉のもつ、論理性の終局をあらかじめ仮想された「唯一の解答」に導かせるような、特定の吸引力を持った性格は、そのような関係性を消してしまう。そのとき「真なるもの」は、後藤らが指し示そうとした新たな方法が生まれる場所に、逆の結末を準備したように思える。言語領域から「自律」してしまった「真なるもの」は、決して言葉としてみつかりはしないからである。たとえば、当時まだ構造計算が困難を極めていたドームなど、立体架構の研究に対する、彼の嘆きともとれる言説がある。

計算が愈々精密になって来るとしても、それが実施せられたものに比して全く一致するかどうか疑問である。定数の定め方とか、施工の巧拙とか云ふ種類のことによって、実施の結果は必ずしも計算と一致しないと思わねばならぬ、どうせ一致しないとならば或程度まで正しいところの簡単な方式のかはりに面倒な方式を使用せねばならぬと云ふ理由は立たない、要するに充分精細なところまで突き止めた上で、その精細な考えを基礎にして、実用的の簡便な方式を編み出すと云ふことは実務上の問題から考へて、設計の労力と同時間の経済との点で、一面必要なことと思はれる、自分は仕事に追はれながら、面倒な計算をやる度毎に常にさう感じるのである。「張?付肋材屋構の理論及び計算」大正4年2月*2

後藤は一見「実用」的な計算方法の必要性を説いているように聞こえるが、しかし前後に書かれている後藤の実情を考慮すると、それはまったく反対の意味にも変わりえるだろう。彼は「真」なる構造をもとめて「仕事に追われながら、面倒な計算を」やらざるをえない。しかしその計算が「ますます精密になって来るとしても、それが実施せられたものに比して全く一致するかどうか」保証はもてないのである。彼は理論と実物とが全く一致するような「真なる」世界を追及することの無意味さを、実際に追及しながら、認識せざるをえない。だからその「実用」的な方法は、せめて「充分精細なところまで突き止めた上で」おこなわれるべきだ、といったん調停せずにはおれないのだ。
後藤らのモダニズムは、科学的思考を生産し続けることのできるデザインの構想力を持っていたかぎりにおいて、近代「日本国」建築の系譜を大きくぬりかえたかもしれないと言われている。実際、代表作である大正4(1915)年竣工の豊多摩監獄は、名作などという美字をとおりこして、たとえば監房上の鉄骨小屋組における精緻な仕事ぶりには鬼気迫るものがある*3。それもそのはず、その裏側には迷宮入りとでも思えるような「真なる」構造についての模索があった*4

図2-5
a;豊多摩監獄特別監房中央上部のドームにおける極度に繊細な骨組み、b;その詳細(『建築雑誌』352.353号より)

しかし総じて、彼らのこれらの試行は、さまざまな可能性で構成されたタマネギの一皮々々を捨象し続けることであったように僕には思える。「真なるもの」の持つ「唯一の解答」という吸引力は、一見論理がみがきあげられる過程をほのめかしながらも、実は後藤らの獲得した方法の領域を急速に狭めてゆく。
『自然』もまた同じような空虚な観念でありながらも、しかしその無限定に技術を抱摂する拡散的な指向はその実践において全く逆にはたらいた。佐野は自らが創りだした耐震構造技術の性格について以下のように述べている。

然しながら、諸君、建築技術は地震現象の説明学ではない。現象理法が明でも不明でも、之に対抗するの実技である、建築界は百年、河の清きを待つの余裕を有しない。
そこで案出せられたのが、即、所謂従来の方法である。…一切の複雑、煩悄、不明確問題を打ち混じて以て之を一丸となし、震度なる単一観念に之を統一し、Dynamic Actionをstaticallyに取り扱った所に其の主要なる点が存するのであります。「耐震構造上の諸説」昭和2年1月*5

ここで論理は「真なるもの」を求められてはいない。しかし近似としての実践的な方法ははるかにシンプルで具体的である。後藤らの述べる構造的な「美」とは、美術から「術」だけをとっぱらってしまったようなものだ。手法を伴うことのない建築論は、可能性を断たれた観念論である。しかし一方で佐野のいう「実」にせよ、現に存在している方法的な矛盾を見えなくしてしまうことによって、可能的な技術を逆に消してしまう。その意味では同じように観念論的なのである*6
後藤らに残されたものは、静かに凌辱されるのを待つ処女性だけだった。いはばカラッポでしかないその処女性を自決覚悟で守りきる以外に彼らの存在意義はもはやなくなっていたのではないか。さきに引用した失意の山崎の終稿*7に、その到達点がみられるような気がする。

私は、私の「真の生活」の意味に於ては、父母も妻子も愛し又信じ得ません。私は私自身より外に私を徹底して理解するものは無い、私の真の生活は私獨りであります。けれども、皮相或は本能、或は道義上、父母を愛し妻子を愛し又信じているのは事実であります。此の愛が家庭生活を愉快ならしめてゐる神聖なキイであります。…而かもなほ、此の神聖なキイも、人間の真の生活といふものからは既に第二義に堕ちます。

山崎の最後のタナ上げ、閉じられた「真なるもの」がゆきついたところは、閉じられていながら完全な「自由」をもたらす、いわゆる「自己」概念だった。

*1:『現代の建築』創刊号、藤井正一郎・山口廣編著『日本建築宣言文集』彰国社、昭和48年(以後NSBと略記する)、p.63~67

*2:『建築雑誌』338号、合本p.34

*3:後藤による新築当時の豊多摩監獄の説明は『建築雑誌』342号、大正4年、合本P.476を参照のこと。

*4:例えば後藤が豊多摩監獄で採用したドーム状の「八注腰折屋根」に対する詳細な構造計算を用いたアプローチ(『建築雑誌』351、352号に所收)と、佐野の標本モデルを用いたドーム架構についての簡便なまとめ及び具体的な方策の提示(『建築雑誌』354号p.307)との目的の設定の根本的な相違を参照のこと。

*5:『建築雑誌』491号、合本p.46

*6:これら当時の構造技術に潜む観念性について述べたのが六反田千恵「NIPPON MODERN ARCHITECTURE」(早稲田大学建築史研究室修士論文、1991年)である。本稿の分析はそれに多くを負っている。

*7:「其の文言について」『建築雑誌』407号、大正9年10月