「自己」とナショナリズムとの相克する観念世界を読み解く

当時よりひいては現在に至るまで、近代「日本国」建築総体の主役は、「空気」となった本居的モダニズムである。そしてその基調の中でいわゆるフリー・アーキテクトによる多様な変革への試みが繰り広げられる。
一般に、分離派から建築運動がはじまったといわれるが、その「運動」という言葉の意味は特定の「日本」的状況を示唆していて興味ぶかい。それは分離派以降、群発しはじめるさまざまな建築的試行が、もはや「空気」となって現前している本居的「内部」に、その方法論的な強度をことごとく相対化される構図をもしめしている。「運動」とは、つまり方法論として実体化をともなうことのできなかった幾多の建築論的残骸でもあるからである。
昭和期から始まる錯綜した「運動」状況は、「自己」という新たな位相が混入されたことによって俄然その把握が困難になる。
この章においては、昭和初期から大東亜戦争終結にいたるまでの多様な展開をしめす建築論領域の構図を、特に当論の主眼である「自律」するナショナリズムがもたらした論理構造と大正期にはじまる「自己」概念を二重に映したときに、特に言及されねばならない未批判の部分をとりあげてゆこう。つまり近代「日本国」建築におけるナショナリズムと現在への連続点をしめす、核心の部分をあぶりだすことがこの章の主題である。
当論文ではおもいきって、モダニズム運動、そしてマルキシズム建築運動、あるいは帝冠様式騒動といった一般的なカテゴライズを割愛する。それら多くはすでにいくつかの優れた研究によって語られていることもその理由にあげられるが、別の見方をすれば建築論を新たな位相で語ったのが、とりもなおさず大正期の建築論にもたらされた「自己」の地平であるならば、その推移と、そしてその過程における「日本」ナショナリズムとの抵触にこそ、昭和建築論の核心があるという直感によっている*1
     
「自己」とナショナリズムの二重映しから派生するいくつかのモデル、たとえば以下のような単純な分類が可能だろう。
a・「自己」を獲得していない者にとって、彼の行為を規定するものは外在する諸条件のほかないから、その観念の転換は反動であれ前衛であれ「思想的な死」という命題をもつことはない。
a'・日本における「自己」の展開を相対化しえた者。それは例えば国学的『自然』を思想的根幹に据えるものにとって可能である。彼らは「日本」的前提とのズレを保持する必要がなかったという意味においてナショナリスティックである。
b・「自己」者…外在的なナショナリズムによる「敗北」意識は、彼において初めて内在的に転向の問題としてあらわれる。
b'・「自己」内に課題として残されたナショナリズム(「外部―内部」的認識)の図式そのものを外在的に把握してゆこうとする者。
b"・弱体化してゆく「自己」という殻から「神としての内部―共同体」の幻想へ飛躍をこころみる者(「神としての共同体」の意識は「自己」の地平によって初めて獲得される)。

これらで特に言及すべきは、a'b"、の二つである。a'は現在もなお僕たちをひきよせる、本居的モダニズムの生んだ「清らかさ」を対象化するために。またb"は戦後の問題をあつかう次章において、丹下健三の方法論の布置を準備したモデルとして重要であろうとおもわれるから。

*1:ただマルキシズム建築運動は、「日本」的ナショナリズム(=自然)の呪縛から離れ得た唯一の運動であり、アイロニカルに言えば現在においても一定の方法的強度を有している。その特異な位置は改めて批評を加える必要があるが、別個な意味あいをもつ問題であるので検討対象にはならない。ただ近代「日本国」建築の系譜との対置におかれたときに、マルキシズム建築運動はその位置においてそれこそ固有の問題が表れる。マルキシズム建築運動のまさに突発的な登場の仕方からもいえるように、これまでの系譜とは全く異なる、外部直輸入とでもいうべき性質が近代「日本国」建築の系譜との関係性の放棄をもたらし、「日本」的文脈についての認識把握をリアルに獲得できないといったような独特な問題をひきおこした。彼らの実践は気づかないまま、結果的に本居的「内部」との奇妙な戦時中における共同戦線へと、合流していったのである。別の機会に検討したいテーマである。