昭和17年9、10月、雑誌『文学界』に掲載された「文化総合会議シンポジウム―近代の超克」という座談会の中で、小林秀雄は日本の古典の「普遍」性について次のような言説を残している。
僕としては、古典に通ずる途は近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた様に思ふのです。*1
a'の一例として取り上げる建築家・谷口吉郎にも、このヨーロッパ近代を「近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた」小林の言葉があてはまるだろう。また両者はともに日本における「自己」の展開に一定の距離をくずさなかったということでも一致しているかもしれない。彼らはどのようにして「普遍」へと続く一本の道筋を見たのだろうか?