分離派批判

谷口の建築論におけるデビューは昭和3(1928)年の分離派批判から始まる。分離派建築会はこの年の第7回展覧会をもってその活動を停止するが、谷口は激烈な調子でその退廃ぶりを批判する。

…建築硬化症の産物たる退嬰的な耽美主義の蠢動だ。建築を叫ぶもそれは建築を自己の逃避所とし、其の中に立て籠り、其小世界に自我を誇大に主張せんとする井蛙的な建築美術至上主義の傀儡だ…「分離派批判」『建築新潮』昭和3年*1

谷口は「自己」の仮象ぶり、その弱体化をごく正当に批判する。この時点で谷口は「自己」の陥穽におちいってはいないし、逆にシラけた視線を投げかけていた。では西欧のモダニズムについてはどのような見解を示したのか、2年後の昭和5年におけるコルビジェ批判を見てみよう。

…更に彼(註:コルビジェのこと)によって建築の根本が聞かされる。「建築の本質は錐体、立方体、円筒、円錐等に依存する以上、斯る形態が持つ創造的、指示的要素は純粋幾何学に立脚している。」これによってもわかる如く、幾何学に対する彼の見解は殆ど、奉信と言っていい程に、その絶対性を認めている。…
即ちコルビジェは立体主義者と同じく思惟の君主的圧制によって、現実を無理にも統一化せんとするものである。…
これは明かに思弁的袋小路に這入り込んだものである。思弁哲学の推理的な遊技に過ぎない。彼の建築観は一面的な理性の跳梁によれる私生児だと言っていい。「ル・コルビジェ検討」*2

僕たちはここに「日本」精神の優れた批判能力を見る。つまり「作為」をみぬく能力である。コルビジェについてさらに言う。

…それは湾曲壁の乱用だ。曲線の玩弄とさへ言はれる。実用性の去勢されたプランの図案に過ぎない。
…実用を無視してまでも形式的潔癖を保たうとする教養主義である。
…建築家の実際的職務の第一歩たるべき、同時に最も重要なるべきプラン計画は、彼にとってもはや線のロマンティシズムに過ぎない。(前掲に同じ)

そして彼が、批判の根拠を「当然」のようにさらけ出すとき、僕は近代「日本国」建築発祥以来の、国学ゆずりの「実用」観の強度を感じずにはおかない。後世の評価では谷口はモダニストと考えられているが、ここでの言説は「モダニスト―外国かぶれ」とは一線を画しているようにきこえる。では「実用」とは谷口の場合何なのか?
「然し、我々は彼の建築の2面性を通して、社会の二つの相貌を見抜く事が出来る」と彼はいう。一つは建築を毒している「消費万能の生活様相」であるが、もう一つは「我々がその建築に満身的な友情に満ちた愛撫を禁じ得ない」彼の「生産的生活様相」である。コルビジェのかっての住居は迅速で、容易で、廉価で、共存生活の一細胞として存立するもので、山の手風の住居意識が排撃されていた、と谷口は賞賛する。彼はコルビジェを擁護しながら、コルビジェの計画した住区はいまだに住む人なき無人境にさらされていると、理解なき「小市民」や「官僚」、「インテリゲンチャ」を容赦なく「鬼め!」と痛罵する。
若きマルキストとして、このころの谷口を見ることはできる。しかしそれ以上に佐野に代表される建築生産体制を構築した本居的モダニズムとの共通点を見いだすことが可能である。と、同時にまたコルビジェの「様式」を「作為」として見なした谷口にとって、自らの表現にいかに対処してゆこうとしたのかも興味ぶかい。それは最終的にはマルキシズム建築運動が本居的モダニズムに抵触していったように、彼もまた、「実用=自然」概念の流れにつらなっていったように思える。

*1:KKH、9編建築論4章日本の建築運動から、データとともに引用、p.1595

*2:『思想』昭和5年12月号、NSB、p.207~217、旧仮名使いはあらためた。