『自然』信仰…つくることへの疑い

生きている「私」に関わらず、私のつくりだして来たものは時代の流れと共に生きてゆくかも知れない。過去の偉大な時代に完成されたいろいろな造形物を通観すると、ある特定した美の性格が発見される、と谷口はいう。さらにいかなる作家も、彼自身が無意識であっても、その時代には無意識の刻印が押されるという。
また、そのためにたくましい制作意欲が必要だ、という。それは将来に誕生すべき様式の美に憧れる「意匠力」であるという。この美しい造形に憧れる力が、様式の発生記にあっては、素朴な創作的活動となって「清らかなる意匠」の萌芽となるという。
しかし谷口は本当にそう思っていたのだろうか。「将来への創作意欲」が「故郷喪失」のモチーフの裏返しであることは明らかだろう。そして僕たちが、いま、ここで、つくるということの意味はいまだに明らかにされてはいないのだ。いや答えは用意されている、ここにないものに向けて首を垂れよ、と。
小能林宏城は、名作とされている谷口の「藤村記念堂」(昭和22年)について、「あの建物から醸成される、あの暗さの正体はいったいなになのだろうか」と小能林内部の、ある近代日本の精神譜―彼はそれを「原罪譜」とまでいう―に結び付けて自問する。

彼らは、西洋という「他人」によって与えられ変容された観念と、この抜きがたい感受性(註:旧き日本への郷愁のこと)とのジレンマの谷間で苦悩してきたのだ。…そしてこの苦悩は、ある時は暗い淀みに渦巻いたかも知れない。これは二重の苦悩であった。あの大正から昭和初期にかけてのインテリゲンチアの内部に淀んだ絶望感・挫折感・自我意識・異和感と、明治の工匠たちのあとを襲った建築家たちの苦悩、それらが重なりあったのだ。藤村のあの陰湿な暗さ、荷風の倦怠と絶望、竜之介の荒涼たるシニシズム、それらはそのまま谷口につながりはしないか。*1

そしてまた、それは1965年8月の小能林自身にもつながる系譜であり、もうそろそろ僕たちは、そのつながりを断ち切らねばならない。

昭和13年国家総動員法が公布。
8月16日、ヒトラー=ユーゲント来日、
10月27日には日本軍、武漢三鎮を占領、
12月23日、スペイン・フランコ軍カタロニア進撃開始、
…同年谷口は日本大使館建設工事のため、外務省嘱託としてドイツ・ベルリンへ出張する。
当時の彼の日本大使館建設の苦労記は、日本庭園のための庭石さがしとして紹介されている。

ここに来て、「石」のために、こんなに苦労するとは思わなかった。「切り石」はあっても、天然の肌をもった「野石」は、石ころ一つも見あたらなかった。「凍てつく日―ベルリンの庭石」『雪明り日記』昭和22年*2

この日記で谷口は、「異国」の地における石さがしを通じて、どんどん『自然』へ寄り添いはじめる。ある時、コンクリートで庭石をつくってみてはどうかとそそのかした人に対し、彼はこうなげかける。

しかし、庭というものはそんなものだろうか。もちろん、日本の庭は、人間が『自然』を模したものであることを特色とするが、そんな自然の剥製であろうか。そんな模型細工のようなものだろうか。庭は、そんな死んだ物ではない。ただの模造品ではない。生き物である。…時とともに生き抜こうとする。星霜に耐えんとする。苔のむすまで、千代に八千代に生きようとする。(前掲に同じ)*3

ここにおいて彼に、本居がまたそうしたように、「ありのままなる自然」をそのままうけいれようとする不問の領域がかたちづくられつつあることに気づくだろう。
それは谷口が「意匠心」を生活美に結びつけながら、しかし本然の生活は現在では見失われているとする、「故郷喪失」のイメージと通底するものだろう。そのような「ここにはないもの」への追慕は、ひいてはここでわたくしが生きる―表現する―こと自体を相対的に卑下しやすい。谷口はヨーロッパ人の石の取り扱いについて、こう説明する。

…(註;ヨーロッパの)造形力は自然をそのままの姿でなく、人間の力によって加工しようとするもので、いわば人工美をつくりだそうとするものだった。このようにヨーロッパの造形は、自然美よりも人工美を強く尊ぶ。…それは自然の流れに逆らって、天に向かって吹きあがろうとするものである。…
そんなことを考えながら、私は私自身の肉体の中にも、故国の風土にはぐくまれた美意識が血潮となって流れていることを感じた。…このような自然の石肌に心をよする美意識は、珠光、紹鴎、利休によって打ちたてられた「数奇」の美学である。これこそ茶道の「さび」の造形であり、利休こそ、この日本の「石ころ」にこもる美を、世界的な高さにまで完成した偉大な作家といわねばならぬ。(前掲に同じ)*4

ここで谷口は、よく見かける「日本」美学論共通のテーゼに陥っている。
「自然―数奇―わび、さび」の系譜へとつながる、いわば「日本的無の世界」に対して、しかし僕たちはそのような美学の大体が、ナショナリズム発生の基本である「外部―内部」的認識から不可避的にせりだしてきたものであろうことにもはや鋭敏になってしまっている。例えば超克論者でもあった哲学者、高坂正顯は彼の思想の前提をこう記している。

東洋の原理はまさに無であるのである。西洋的実在は、自然にせよ神にせよ人間にせよ、要するに有の原理である。ここに無を原理とする東洋の特殊な意義がある筈である。「現代の精神史的意義」*5

しかし「無」という言葉が「有」に対する対置として初めて表れてくることも、ここで同時に露呈されている。その「無」が、判断中止の場として「論理」に対置されたときにおこる、観念的あるいは制度的な専制について関して本稿はこまかく述べてきたが、「無としての内部」を前提として、例えば「美学といった論理」を構築するとき、それは悲劇である。つくられたものとは、「作為」に外ならない。だから「つくられたもの」が「無(作為)」である限り、それはここにはない、のである。その思想は生きていることそのものをも肯定しえないだろう。「花」はここにはないからである。谷口が後年、墓作りを通じて自分の「美学」をこらしたことと、なにやら偶然の一致とは思えない関係をそこにかんじてしまうのだ。

しかし、私自身に、そんな竜安寺の石庭を、ここで試みてみる資格が果してあるだろうか。その美しさにあこがるる切なる私の心は、その「写し」をここでつくる許しをえたとしても、まだ骨身にしみるような庭の修行もしていない私の腕は、「もぐり」の作家のように、あさはかなものにしてしまう心配があった。
或いは、日本から石が一つもこなかったら、いっそのこと、石の無い庭にしてしまおうか。「凍てつく日―ベルリンの庭石」*6

*1:「工匠の末裔 谷口吉郎を通じて」『建築について』相模書房、昭和47年に所收、p.86

*2:前掲の『意匠日記』に所收の版を用いた、p.137

*3:前掲に同じ、p.145

*4:p.156

*5:『歴史哲学と政治哲学』弘文堂教養文庫昭和14年に所收。

*6:前掲の『意匠日記』に所收の版を用いた、p.158