「神性」になりきれなかった「私性」

■日本浪漫派について
当時立原は原稿の依頼を通じて、雑誌『新日本』の中核メンバーであった日本浪漫派といわれる特定の指向を持った文学者グループとの親交を深めていった。

日本浪漫派の出現は昭和10年代の余りに象徴的な事件として語られている。その運動の実質的な代表者であった保田与重郎は、自ら日本浪漫派の核心を『没落への情熱』あるいは『イロニーとしての日本』としながら、彼ら独特の日本回帰のありようを語る *1
それは廣松によれば、あらかじめ「己の頽廃の形式をまづ予想した文学運動」*2であり、究極的な「自己」意識の上昇によるそれ自体の没落、そしてデスペレートな「故郷」奪還をも意図していた。また大久保典夫は、当時の保田にとって日本の近代は、既に頽廃する以外に更生法のないものとして認識されていたのであり、ここにおいて「イロニーとしての日本」という現実認識が生まれる、とまとめている*3
また「浪漫派」を自称するように、その運動が過剰なまでに理論以前の心情を重視すること、たとえばそれは「現状に対する絶望を介したシニシズム」であったり、「西欧文明に対する見極めの意識に反照された国粋的な美意識」*4となってあらわれるが、注目すべきは彼らが、唯一本居的『自然』に還元されえない外部性を獲得していたはずの戦前のマルクス主義運動の落し子であったということである。
保田が先の「近代の超克」座談会に出席を予定しながら、約束を果たさなかったことからも伺えるように、いまさら言擧げことあげすることの無意味を強調する*5保田の「論理」ヘの冷やかな眼差しは、自分自身が例えば「マルクス主義」という、近代化のレールに乗ってゆきついた「絶望」という地点から、無規定に幻想としての「内部」に身をまかせきろうとする、一定の日本的な回帰のありようをしめしている。
同じく廣松によれば橋川文三は『日本浪漫派批判序説』の中で、右翼・ファシスト的観念論に嫌悪を感じていた若い世代が、保田の国粋的神秘主義にはころりといかれた事実の解明の必要性をくりかえしているが*6、それは以上のような日本浪漫派の生成過程が、日本における近代の展開が、理想主義的な実践の下に挫折していったこと、あるいは「自己」を伴った観念的上昇の果ての無力感、絶望という運命を、そのまま映しだしているからであった。日本浪漫派はこのかぎり、体制側のイデオロギーとはまったく趣を異にするだろう。
このような日本回帰の定石を、当論風に言えば「外部としての自己」を、「自己」の地平から獲得された「神としての内部―自然」に還元、解体してゆくものということができるだろう。

萩原朔太郎
昭和11年12月、「日本浪曼派」同人参加
昭和12年12月、「いのち」-「日本への回帰」発表

…かつて「西洋の図」を心に描き、海の向こうに蜃気楼のユ-トピアを夢みて居た時、僕等の胸は希望に充ち、青春の熱気に充ち溢れて居た。だがその蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し回って、結局やはり祖国の日本より外にはない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、至るところに俗悪なビルディングを建立して居るのである。僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏しているといふほど、
疑ひの無い事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失しては居ないのである。
我は何物をも喪失せず
また一切を失い尽くせり

結局日本浪漫派はなにもなすことはなかった、というよりも、なにもなさないことに向かう道筋で直面しなければならない問題そのものを表現しえたとでもいうほかはない。それはイロニーとしての日本を承詔必謹走り抜けてみるほかないというデスペレートな居直り*7でしかないような、「幻想としての内部」に、意識的に服従してゆく過程で獲得されるほろびの美学だったのだ。
このとき「私性」は「神性」になりえなかったといってよい。「自己」というロマン派の根幹思想を、幻想としての「内部」に突入するために殺し、その上、浪漫派のデスペレートな心情からすれば共同体は依然「外部」であったからである。「超克」も果たせず、「神性」も獲得しえない、まさしく自殺のドキュメントを彼らは放送したのだといえる。

■浪漫派の『自然』と立原の「人工」
立原もまた、神になりえずに死を迎えた「私性」であった。しかしその様相、経路は浪漫派たちの位置とは多少異なっている。
詩人大岡信は、立原が、大岡の言葉で「人工」と表現される作為性から、神秘的な「内部」としての『自然』へ進み始めていた浪漫派に対して抱いていた違和感についてうまい要約をしている。

自然は一種の鏡である。…だがそこには決してナルシスムはなかった。むしろその逆、自意識の気遠い拡散と、自然への自己埋葬の欲望とがあった。…ナルシズムが自我に要求する自我自身への排他的関心はそこにはなかった。したがってまた、ひるがえって自然への即物的な凝視へ自己の視線を転回させるべき内的契機もそこにはなかった。そうした意味でのナルシスムないしはエゴチスムは、むしろ金子光晴中原中也立原道造などの中にこそ、うちひしがれた形ではあれ、あったと僕には考えられる*8

ここで大岡は立原の内的世界の象徴である「人工の白い花」が決して『自然』に還元されえるたぐいのものではなかったことをしめそうとしている。大岡は、保田が立原を評して「発露としての自然的なものを憧憬しつつ、実に態度としての人工的なものしかとりえない」というふうなかたちで理解したことについて、そこに立原の病的兆候としての、ありふれた「人工」観を超えた、ある種の積極的内容をその最後においてはらんでいた可能性を示唆している*9
立原はそのとき、本居的『自然』の周りをまわる「自己」の袋小路を、決して融解しえない弱さゆえの「私性」によって見抜いてしまったのかも知れない。

12月13日
のりこえのりこえして生はいつも壁のやうな崖に出てしまふ、ふりかへると白や紫の花が美しく溢れてゐるのだが、僕はすべてを投げ出して辛うじて少しづつ前へ進んでゐる》光を奪え!《…長崎に来て見たものは楠の木の葉に陽があたるのだけだった そして人の会話をよそからきいてゐると どこの言葉か 全然わからない 仏蘭西語のやうにもきこえる たうとうこの南方は僕に何ものも與えてくれなかった しかし 僕は 何かを自分のなかにきづき得た。*10

*1:「文明開化の論理の終焉について」昭和12年6月

*2:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.186

*3:大久保典夫「保田与重郎萩原朔太郎」、出典は前掲に同じ、p.187

*4:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.175

*5:大東亜戦争と日本文学」昭和18年、出典は前掲に同じ、p.173

*6:未来社、1960年、文中p.19

*7:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.188

*8:保田与重郎ノート」1959年7月『超現実と抒情』に所收、p.146、147

*9:立原道造論」1957年4月、前掲書に所收、p.249~258

*10:前掲の『立原道造全集 第5巻 書翰』に所收