「私性」から「神性」へ…戦中期における丹下の意味

ここまで書いたら丹下の特質がはっきりとあらわれてれてくるだろう、と思っている。
立原は「人工としての白い花」の中に絶望とある安寧をもって死んでゆく。浪漫派はラヂカルな居直りの果てに望んだがごとく惨落していった。それにくらべて、丹下は強かった、といえる。

…それは静謐なる歴史の時刻であった。どこか醒めた自我の内に、歴史の尖端の焔は燃えた。その時歴史は究極の、貴重なる一歩を上昇した。
MichelangeloとLe.Corbusier、一見相反するこの二つの名は、上昇する姿に於て、時間という荒寥なる間隙を通して相寄る。「MICHELANGELO頌」昭和14年*1

と、とんでもない華々しさで始まる丹下健三の建築論デビューである「MICHELANGELO頌」は副題を「le Corbusier論への序説として」として、昭和14年の雑誌『現代建築』(日本工作文化連盟発行)に、コルビジェ論として発表された。
丹下は後に当論の意味を、「衛生陶器」のような感動のない「近代建築」だけではとらえきれないコルビジェの作品の持つ魅力を、ミケランジェロを引っ張り出して考えてみようということであった、と述べているが*2、そのような立場は「今日、目に触れる建築には、ただ近代の意匠だけあって、何の表現もないようにおもいます」と近代建築を嫌悪した、1年上の先輩、立原の系譜をつぐものと見ることができる。まず立原道造の『方法論』との連関において先の「MICHELANGELO頌」を検討してゆこう。

*1:『現代建築』7月号、NSB、p.324~335、旧仮名使いはあらためた。

*2:『一本の鉛筆から』1985年、p.40