仮構された「近代の超克」が生んだもの

表現とは単に客観的なものの模写ではなく、客観的なものと主観的なものとの、内的なものと外的なものとの統一として形成されるものが単に人間的に止まらぬ超越的な客観的な意味を有するところに表現がある。そのことは人間的存在が屬々誤解される如く単に主観的なものではなく、形成的創造的世界の形成的創造的要素として働くものとして実在性を有するに依るのである。芸術家は単に任意の対象を描かうとするのではなく、却って芸術的意味を含んで表現的なものとして彼に呼び掛け、彼に表現を迫るものを描くのである。
三木清『協同主義の哲学的基礎』昭和14年、昭和研究会*1

「近代の超克」座談会を主催した雑誌『文学界』の同人でもあった哲学者三木清の、丹下の論文と同年に発行された「協同主義」は、「唯物論と観念論との抽象性を克服した具体的な立場」と規定されている。
しかし三木の言説は多義的である。彼はマルクスの影響下から転向をへて、超克者としての西田哲学へ接近するにつれて、新たな世界認識の方法を模索していた。彼の昭和10年代のおもな作業は、「客観vs主観」、いいかえれば「社会vs自己」という決してうちとけない両者をいかにつなぐかということに眼目がおかれていたように思える。彼はハイデッガーの、世界―内―存在としての人間という定義を援用しながら、以上のような二項対立そのものをもくつがえしてゆこうとする。

…従来の主觀・客觀の概念においては、自己は主觀として存在でなく、一切の存在は客觀と見られる故に、自己は世界のなかに入つてゐないことになる、世界は自己に對してあるもの即ち對象界と考へられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考へられている。かやうな主觀は一個の抽象物であつて現實の人間ではない。現實の人間はつねに世界の中にゐるのである。我は世界の中にゐて他に對してゐるのであるが、我に對するものはなによりも汝である。我は汝に對して我であり、汝なしに我は考へられない、そして汝は單なる客觀ではなく主體である。即ち主體は主體に對している。『哲学入門』昭和15年 *2

このような言説は「主観vs客觀」をのりこえるヒントとして、ますます「観念」的になりつつある現在においても、実際に建てざるをえない建築者―社会に行為せざるをえない者―にとって、おおくの示唆をあたえてくれている。しかしそれはちょうどハイデッガーの思考がナチズムを許容したといわれているように*3、結果として「自己の社会的な絶対化―国家」という皮相な誤読を―三木自身でさえ―可能にさせる。その誤読は、ほんらい二項対立そのものをのりこえるはずであった方法を、あくまでも二項的に語ってしまうという認識的な限界にその原因をもとめることができるだろう。丹下は彼の視点の多くを当時の三木の作業の中から見いだしたように思えるが、以上のような理由によって、彼が何をこれらの言説からひきだしたかについて、さらに検討しなければならない。
三木は、唯物論と観念論との対立を止揚しようとした「協同主義」について、その核心をまた、個人主義全体主義との二元論をも超克するものと読みかえている。それはさらに、「西洋」と「日本」という対立をも統一しようとした作業であったように読むこともできるだろうし、丹下が「世界の根底の意志」によって「ディオニソスとアポロという西洋」をも超克しようとしたことともパラレルであった。しかしその「超克」は、丹下において、あくまでも「天才という主観vs世界という客観」という、超えるべきものであった二項的な認識の下においてくりひろげられたのである。それは、いわば仮構された「近代の超克」にほかならなかったのではないか。建築論が、建てざるをえない者の論理としてこそ、独自の価値を見いだされるとすれば、その生成の場所としてのこの世界存在を、僕たちに関係のない客観的存在としてではなく、表現されたものの重なりあいとしてみることは恐らく前提である。以上のような意味からすれば、「MICHELANGELO頌」の時点においての「天才」論は、建築論として完結するためのてだてをいまだ持ちえていなかったようにもみえる。
当時三木は、「技術」について、以下のような発見的な作業をおこなっていた。

ところで一つの技術は他の技術に對して手段であり、このものは更に他の技術に對して手段であるといふやうに考えてゆくと、諸技術の間に目的・手段の関係における聯關を認めることができるであらう。…諸技術を總企畫的に支配するものはそれ自身一つの技術であり、政治はかくの如き技術である。ところでこのやうに諸技術の間に階層的関係を考へる場合、注意すべきことは、何等かの技術は單に目的であつたり單に手段であつたりするのでなく、それぞれの技術が一方目的であると同時に他方手段であるということである。どのやうな技術も單に手段であるのでないやうに、單に目的であるのでない。『技術哲学』*4

観念を技術という行為的な存在からきりはなしてしまう思想、三木はそれを批判した。たとえばアプリオリに上部構造を「観念―主観」としてとらえ、下部構造を「社会的実体―客観」として規定してしまうと、たとえば技術思想という、社会―内―観念は存在しないものとされてしまう。と同時に、上部構造としての「観念」はいつまでも「実体」に言及しえない―僕たちは「実体」をまえにしてなす術がないのである。しかし建築論を三木のいう「技術」的な存在として見れば、両者の関係はたがいにきりはなすことのできない関係として語ることができる。そして様々な階層で完結的に存在している諸「技術」―「観念」をも含めたすべての存在―が、実はたがいに全体と部分とを構成しあいながら関係しあっていると三木は言うのである*5。このような「技術世界」像は、確かに方法的な可能性をもって現在に対しているように僕には思える。
話を丹下にもどそう。三木の言う意味での全体としての「建築的観念」と、部分としての「建築的手法」によって構成された技術としての建築論は、『近代「日本国」建築』のように、「観念」だけが「自律」的な変遷をたどった系譜においては、それほど蜜月な関係をともなっていない。両者のあいだによこたわっている恣意性の海を前にして、僕たちはいったんニヒルにならざるをえない*6
しかしそのニヒルな恣意性は、さししめされる手法を主体的に選択しえるという読みかえにおいては「可能性」として映るだろう。丹下はその主体的な読みかえを、「天才」と呼んだ。「天才」という架橋的な存在は、空虚な「内部としての自己」のうちに「外部としての世界」を限りなくとりこむことのできうる地平をもたらしたはずである。その特質を、本稿では世界とのかかわり方において、「篤胤的なもの」ととらえ直すことができるだろう。彼の建築的手法の発見はこの地平からはじまったように思う。
ただしその手法はいまだ、三木が構想した、「日本国」を超克する認識としての、技術的世界にはなりえていなかったことをつけくわえておきたい。なぜなら丹下のいた場所は、彼だけが入ることを許された、「新たな」場所にすぎなかったからである。

*1:三木清全集第17巻」岩波書店、1968年に所收、p.571

*2:三木清全集第7巻」岩波書店、1967年、p.14

*3:ヴィクトル・ファリアス著『ハイデッガーとナチズム』名古屋大学出版会、1990年参照

*4:三木清全集第7巻」1967年、岩波書店、文中p.222

*5:三木清全集第7巻」1967年、岩波書店、文中p.235

*6:ただその海は仮構された「観念」から導かれたものであるかぎりにおいて、言葉のかかえる本質的な恣意性には程遠い。