「大東亜記念造営計画」の意味

近代「日本国」建築のなかのいくらかの人びとが、心の中で「戦犯」的だと感じていたかもしれない丹下のプロジェクト案としてのデビュー作、「大東亜建設記念造営計画」*1における1等賞は史的にも評価が分かれていた。たとえば戦後建築界が「戦争協力」の一言でかたづけていた当時の動向を、評論家井上章一はこの案についての当時の妥当な意見をとりあげることによって、けっして彼らが「戦犯」的ではなかったことをほのめかしている。*2

よく申せば作者は賢明であった。悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせよこの作は金的のねらい打ちであったと申してよいと思ふ。前川国男「競技設計審査評」『建築雑誌』1942年12月

しかしこの案ならびに当時の丹下周辺を、当時の政治的意図とは無関係とし、かつ80年代の日本のポストモダニズム現象の源流に位置づけようとした井上のまとめ方*3は、たとえば「政治」と「文学」とを隔てることが本質的でないことと同じように表層的なものだ。本稿は「大東亜建設記念造営計画」に、建築論「MICHELANGELO頌」とのきってもきりはなせないような関係を求めることができるからである。

我々はかかる意図のもとに日本の最も崇高なる自然である富士の裾野をえらびそこに大東亜建設忠霊神域を計画し東京と1時間〈時速70粁〉の距離にて結ぶ大東亜道路を建設し、それを主軸とせる広大なる地域に亘って大東亜政治の中枢となるべき都市建設に対して過当なる位置を与え〈東京の膨張を防がんとす〉『建築雑誌』昭和17年12月

この、的確な説明ぶりに充満する作為は、日本浪漫派の心情とは全く反対の冷醒さ、また井上が指摘しているような、計算高さをも併せもっているだろう。確かに丹下の提案は、「断然他を圧し一等当選」するほどの内容の大胆さを持っていた。井上は、丹下のそのコンペにおける大胆さは決して無謀ではないことを強調している。例えば神明造りの神社をモチーフにしながら、装飾的な千木を取り除き、同じく装飾的な勝男木はその再解釈として、天窓に改造される。そのようなモダニズム的手法は、「大東亜造形文化の飛躍的高揚」という課題に「見事に解答」していた、という*4
しかし僕は、その設計態度がモダニズム云々のまえに、「MICHELANGELO頌」で獲得された構想の地平によってはじめて可能にされたものであることを主張したい。丹下は彼だけが入ることのできる壮大な実験場を仮設したのであり、ここではさまざまな「世界」の要素が、無限定にとりこまれ、彼自身の基準によっておもしろいように再構成されえるのである。それはもはや「転向」とか「戦争協力」とかいったたぐいの話ではない。彼は「神」なのだから。
僕には以上のような丹下の特質が、平田篤胤の持っていた危険な、しかし柔らかいイメージにだぶって見える。そこには「もののあわれ」の虚無も、「自己」がもたらす束縛もみあたらない。皮肉なことに「戦争協力」者と蔭でささやかれ続けたこの時期の丹下によって、「日本」はことごとく素材と化したように思える。

昭和20年3月09日 東京大空襲、23万戸消失、死傷者12万
     4月01日 米軍、沖縄本土に上陸
     6月30日 花岡鉱山事件、強制連行中の中国人450人虐殺される
     7月18日 ソ連終戦仲介依頼拒否
     8月06日 広島に原爆投下
     8月09日 長崎に原爆投下
     8月12日 北村サヨ、踊る宗教開教
     8月15日 正午、戦争集結の詔書を放送

「神」の顔をした闇屋の真価はこれ以後、発揮されはじめる。

*1:昭和17年に当時の建築学会が主催した計画案コンペ、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」(『建築雑誌』昭和17年7月号、p.2、3)を募集した。

*2:『アート・キッチュ・ジャパネスク』青土社、1987年、p.259。本文中の引用、およびそのデータも同書によっている。

*3:「この企画は、後世から戦争協力の例として位置付けられる。そして、確かに、この企画にコミットした建築家たちは、大東亜戦争を賛美した。しかし彼らは、ただ賛美しただけである。戦争遂行に関する具体的な協力は、なにもしていない。いや、むしろ非協力的だったとさえいえる。戦時下の建設活動に背を向けて、空想図面を夢に見る。この姿勢は、ありていにいって戦争から逃避しているもののそれにほかならない。」前掲書より、p.202

*4:前掲に同じ、p.258