民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関

では、丹下は「民衆」に対してどのような姿勢をとったのだろうか。
実は、すでに過去のものと思われていた彼の建築論「MICHELANGELO頌」での、「創造」における「天才」の社会的位置づけがそのまま踏襲されている、あるいはより整合化されて表れているといっていい。「戦中」期に獲得された方法論は、この昭和31年の時点にまで連綿とうけつがれている。

■「創造」は「民衆」の側にはない。

民衆は、じぶんたちのすんでいる住居や都市について、それに満足してはおりません、何とかならないものか、あるいはもっと積極的に何とか克服してゆきたいと考えているのですが、その"何とか"をあらかじめは知らないのです。欲求、あるいはポテンシャルなエネルギーといってもよいでしょうが、それはもっているのですが、具体的なイメージとしてそれを、あらかじめは知らないのです。「おぼえがき」*1

丹下がこの場で目指したのは、徹底的な日本的マルクス主義者、彼の言葉で言えば「似而非えせ現実主義者」に対する批判であった。丹下は彼らのもつ「民衆に拘泥する姿勢」に、いわば表現することへの虚無をもたらす新たな『自然』としての「民衆」像を感じとった。建築の「創造的契機」を「民衆」の側にゆだねることは、ストレートに建築家の存在理由を無化することであり、その構造に丹下は「MICHELANGELO頌」で獲得した「天才」論を援用して風穴を開けようとする。
つまり「MICHELANGELO頌」において創造の源泉を「現実」におく代わりに、より高き現実として仮想された「世界の根底の意志」に求めたことを思えば、「現実としての民衆」こそが創造の契機を持つという理論をかたくなに拒否している彼の言説との連続点が浮かびあがってくる。また「ポテンシャルなエネルギー」とは、「世界の根底の意志」におきかえることができる言葉だが、決して「民衆」はそのエネルギーを形象化することはできない、と丹下はいうのである。

■「天才」を根幹に据える方法論
そして丹下は、目に見えない「ポテンシャルなエネルギー」を顕在化させることこそが建築家の役割であるという。

建築家は現実の矛盾―民衆と建築のからみあいのなかにおける矛盾―その矛盾の中に欝積して潜在している民衆のエネルギーに、具体的なイメージを提示しようとする態度と問題意識をもって、創造にたちむかうことによって、民衆にむすびつくことができるのです。(前掲に同じ)*2

当時の丹下の姿勢は「建築家は環のなかにはいった体験者であり、同時に、自らの責任において、環の外に立った創造者でなければならない」*3というテーゼに代表されるだろう。このような建築家のイメージもまた、「MICHELANGELO頌」における「世界の根底の意志につき動かされる歴史的使命を持った創造者」という建築家像に抵触するものであった。
その意味で確かに丹下の独善性を非難することは正しいが、ただそれだけに過ぎないことも僕たち批判者は知っておかねばならない。いささか反語めいているが、丹下が戦中から戦後にいたる流れの中で、おそらく持ちえなかったであろう「転向」の意識は、逆に彼の「建築家」についての認識の強度をものがたっていはしまいか。丹下が「戦中」から多くのモダニストたちが傾いていった「日本」的情緒にまみれているようでありながら、実は外にいたであろう事は想像に難くない。彼は、すでに「完全に醒めたる、歴史的な眸をもって 」*4、一切の「外部」を冷静に対象化していたのだから。

■「内的リアリティー」と「構想力」
丹下の丹下たるゆえんは、その「完全に醒めた」眼差しにあった。従来から「日本」的知識人を「構想力の欠如」という点において批判することは、もはやありふれた行為である。しかしもしそうであるなら、本稿が執ように追いまわしている国学的『自然』にそれはつながっているはずだ。「作為」を『自然』のまなざしによって相対化しようとする国学譲りのニヒリズムは、たてる人―建築家―にとって命とりになりうる。この時すでに具現している丹下のシステム指向は、それへの意図的な対決姿勢としてみるとわかりやすい。

…標準設計になる個々の具体例が問題なのではなくて、それを貫いている方法的体系を重視したいのです。
それが方法的体系をもたない限り、いかに個々の設計例を民衆の生活にぶっつけてみても、そこからえられる検証は不確定であることをまぬがれないのです。…それは、方法をさらに高め、また豊かにしてゆくという、体系的な蓄積にはならないのです。
…このような方法的体系に貫かれているイメージを、私は別のところで内的リアリティといっておりました。そうして、内的リアリティを外部世界にぶっつけあうことによって、内部と外部の創造的統一が可能である、それが創造の倫理である、などといったのはこういう意味なのです。(前掲に同じ)*5

丹下は「現実の認識からでてくる思想、あるいは世界観」を「姿勢」といい、自らの仮説のイメージ体系である「内的リアリティ」と「姿勢」との統一を「構想力」という言葉で表現する。つまり「構想力」とは自らの「構築の意志」を強固な方法論的実体性―認識と仮説との相克―をもった体系に定位させる力である。その「構想力」へのヴィジョンを、「日本」的文脈の中に位置づけてみたとき、その意義ははっきりするだろう。
それは、なぜヒロシマがまぶしかったかということへの丹下からの解答でもある。広島平和会館原爆記念陳列館が、文字どおり屹立しているように、彼の構築作業は可視的である。しかし僕たちはそんなあたりまえのことがなされていない「日本=本居」的な思想状況をいたるところに見る。それはいわば思想のブラック・ホールとして、曖昧なもやの中で蓄積の作業を無化する制度としてはたらく。丹下の積み上げた論理は、可視的であるがゆえにイサギよい。それは僕たちが自由に入り、検討し、ぬけだすことのできるものだ。丹下を問わないことは僕たちの怠慢にすぎないのである。

*1:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.20

*2:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.23

*3:『新建築』1955年1月号における発言

*4:「MICHELANGELO頌」、本稿第3章に詳述

*5:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.23