伝統論争…「篤胤的なもの」  

そのような本居的土壌との対決という意味において、50年代の丹下が展開した伝統論を読解してみることは興味深い。もちろん「篤胤的なもの」などという存在があるわけないのだが、本居的『自然』の呪縛から離脱してゆこうとするとき、その丹下の姿勢は「日本」的文脈の中においては篤胤に近い手法をとる。

■私が伝統だ

…だが嘆いたって、始まらないのです。今更焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
…自分が法隆寺になればいいのです。『日本の伝統』昭和31年

これは、東京都庁舎(計画時:昭和27年)において、丹下と共同戦線を張った、岡本太郎法隆寺焼失に関してのコメントだが、この「自分が普遍的である」とする態度は丹下の伝統論にも通底しているモチーフである。

伝統ということを創造という水準で考えてゆく場合には、伝統というのは作家の内部にあるのではないか、そういうふうに考えたいのであります。
…ですから作家の外にある桂離宮ではなく、作家の内部にある桂が創造的に働くのです。それは、作家が自分の内に形成しようとする方法を通して自分の中に再構成して持っている桂なのであります。そのとき作家は伝統を内部にあるリアリティとして感ずるはずであります。だから、作家の中にある桂離宮というものと、外に存在している桂離宮というものとは、おそらく違ったものではないかと思うのであります。「伝統と創造について」1955年 *1

ここで丹下は、本居的知識人に共通する「伝統」に対する無批判的なつきあい方ではなく、「日本」的素材を「天才」という自由な場の枠の中で、あくまでも主体的な判断にしたがい取捨選択してゆこうとする態度において桂を述べている。それは「創造の契機」を「こちらがわ」にたぐりよせようとするものであり、大東亜記念造営計画案においても特徴的であった、「天才」にとっての「外部」のすべてをあくまでも素材とみること、を可能にしている。

■「伝統」の名の下の「世界」
丹下がコンクリート軸組構造に対し、そこに「日本的なるもの」を加味しようとしたことは周知の事実とされている。しかしその細部を検討してゆくと、その論理構造は単純化された従来のイメージからは遠いものであることがわかる。昭和27年竣工の広島平和会館本館のコンクリート軸組の設計方法に関して、次のような記述がある。

本館の時には、この陳列館との対比というか男性的なものに対して、女性的なものとでもいうか、そんな気持ちから、軸組構造をそのまま視覚化してみようという試みの気持ちをもったのである。…日本の柱・梁構造のプロポーションなどについて調べたり、見に行ったり、また、木割などといったのはそのころであったと思うが、コンクリートの架構が日本の伝統的な木割りに合うなどということは考えられないことであった。それにもかかわらず、木割りなどのことを持ち出したのは、自分を勇気づけるためでもあり、またコンクリートによる軸組架構が、もっと広く日本の現代建築に出てきてもよいし、それをやろうとする人たち―自分を含めて―の気持ちの支えになるだろうと思ったからであって、私自身は、黄金比を利用しながら、私の視覚に耐えるものを探していた。「鉄とコンクリート」1958年*2

日本的なるもの」の追求に黄金比を借用したケ所は伊東忠太ばりで、それだけでもおもしろいが、より注目すべきは、コンクリートに合わないと知りつつ木割を手法として援用し、しかし黄金比と並列した位置づけしか暗にみとめていないことに象徴されている、丹下の「日本」に対する眼差しの冷醒さであろう。そのような「作為」的な態度、本居的な「日本」と対立するあり方を、この論考では近代における篤胤的なものとしてとらえてきた。しかし篤胤の場合、「神」としての「日本」に「世界」が膝間づくかたちをとっていたが、ただし丹下にとってそのような狂的な「日本」信仰は微塵もない。あくまでも自分が主体であり続けるかぎりにおいて、全ての「世界」の素材は等価なのである。

私達は苔寺において、深い瞑想に引きこまれ、この石庭において自己を失ってゆくような感動におそわれるのである。そのような芸術的な高さを私達は否定できないであろう。それにもかかわらず、私達がそれに強い抵抗を感じるのはなぜだろうか。
それは、現実から私達を引き裂き、さらに自己を失わせてしまう魔力に対してではないだろうか。
「日本の伝統における創造の姿勢―弥生的なものと縄文的なもの」1956年*3

そして丹下の「主体的であろうとする態度」の底にある「日本―本居」的特質への嫌悪は、丹下自身が「もののあわれ」に対してきびしい批判を加えていることからもうかがえる。

■「もののあわれ」の克服…「日本」的知識人批判

この人間と自然との無媒介な合一、「もののあわれ」の心情からは、外界を客観的にみる科学的な考えも、個性の自覚から生まれる社会的関心も形成されない。この上層文化の伝統が、しだいにいわゆる「日本的」とよばれる文化形態に形式化してゆく。「香川県庁舎の経験を通じて―伝統の克服」1959年*4

伝統論争中に現れた、「弥生的なるもの」と「縄文的なるもの」という二項対立は、丹下の場合、特に「もののあわれ」から脱却できない「日本=本居」的思想状況についての徹底的な批判にその照準がむけられていた。弥生的文化とは、ここで上層文化によってもたらされた「人間と自然との無媒介な合一」指向を基調とする「もののあわれ」思想の系譜として規定されている。丹下はその一例として「日本の庭」を紹介し、その類型化された自然に自己の情緒を写しているにすぎない卑小さを断罪する。
しかし彼が批判した「庭」に対する「自然の模写」という一定の観点は、実は近代日本のナショナリズムの系譜によりかたちづくられてきたものであり、その意味において丹下の「庭」に対する批判こそが逆に近代的な範疇を出るものではなかったことは、後に僕たちにとって大切な、ある乖離をうみだす。しかしその前に、ここでは丹下が「もののあわれとしての庭」に対する批判的な視点を持ったことにまず注目したい。なぜならそれは彼に、近代における「日本=本居」的知識人総体に対しての「超克」を標傍させたからである。

…江戸のながい権力体制と鎖国の中では、民衆のエネルギーも「風流」でしかありえなかった。明治の文明開化もこれをくつがえすことができない。西欧の外向的な自然主義も、内向的、私小説主情主義として受け取られてゆく過程が、これをよく示している。
…裏がえしにされていた民衆のエネルギーがこの戦後、はじめて、不十分ではあるが、解放されたのである。この解放されたエネルギーは、まだこんとんとはしているが、しかし伝統の否定者、破壊者として、歴史の表面に現われてきた。それはあるいはロックン・ロールへ、またロカビリーへ、と転々とそのはけ口を見いだそうとして、こんとんとしている。画家も作家も、若い世代は、実験に身をかけて、自己を主張しはじめた。上層文化の伝統、弥生的伝統のにない手の目には、これらは百鬼夜行の混乱として、にくにくしげにうつるかもしれない。しかし私はこのこんとんとしたエネルギーが、歴史的必然性をもって、日本の伝統を破壊し、革新し、日本の伝統を正しく受け継いでゆく母体となることを信じて疑わない。
香川県庁舎の経験を通じて―伝統の克服」1959年*5

めまいがでるような近代批判だが、そのポーズを通り越して、やはり丹下にとっての真実を映しだしている言説だろう。丹下は、「弥生的―もののあわれ」という「日本」文化に対立する「縄文的なるもの」を、アノニマスな「民衆」のエネルギーにむすびつけたから、当然「民衆」文化をもち上げずにはいられない、もちろんそれは「まだこんとんとはしている」という注釈つきで。さきに僕が丹下を「闇屋の親分」よばわりしたのは、決してイロニーではない。以上のような実践に「日本を対象化し得る者=闇屋」としての一定の共感を憶えるからである*6
しかし彼の「弥生vs縄文」という対立は、前述のように二元的思考の粋を逸脱しえなかった点において、奇妙なズレを生むことになる。つまりその強固に二元的な対立が、「弥生的」範疇としての「日本」文化総体を単純に克服すべき問題としてとらえさせた。そして「縄文的なるもの」のモチーフが「民衆」という近代の袋小路に密接に連関していることは、丹下をしてその方向を余りに直線的な進歩史観にむすびつける役目を果たしたからである。

日本の歴史のなかで、私たちは多くの変革の時期を経験している。…そうして現代の歴史家たちは鼓舞するようなものを伝統の姿勢のなかに求めようとしてきた。しかしそれを私達は過大に評価してはいけないのである。いつの変革の時期のあとにも、そのような革新的な人たちの積極的な姿勢は、「もののあわれ」に回帰し、また「すき」、「さび」に、そうして「わび」にまた「風流」へと回帰してくるのである。そうして変革は常に不徹底なものにしかなりえなかったのである。「日本の伝統における創造の姿勢―弥生的なものと縄文的なもの」1956年*7

近代における「日本回帰」批判としては妥当だが、「日本文化」総体の批判としては近代「日本国」的誤謬がふくまれている。たとえば現在僕たちは、日本中世における文化のありようが異様なほど豊かであったことを知っているし、それは丹下が批判したような、「自然の模写としての庭」に代表される、ニヒルな近代「日本国」史観の幻想の外にあるからである。

この「もののあわれ」から「風流」にいたる伝統は、今日、私達の「内部」にまで届いているのである。ここからデカダンスへの距離は一歩にすぎない。(前掲に同じ)*8

もののあわれ」批判として確かだが、くりかえしていうなら、丹下はそのとき入れなくてもいいものまで「弥生―もののあわれ」の範疇に放りこんでしまった。「日本」文化を十把ひとからげに、破棄すべき「デカダンス」としてみたときに、捨象されるものは大きかったはずである。それはいいかえれば、「闇屋」が己の足元を振り返らなくなったことを意味しているのかもしれない。

バラック批判
その弊害は、日本のバラック文化を「もののあわれ」との連関において批判する、それ自体としては注目すべき論の結末に皮肉な解答を用意している。

…日本の文化一般にわたっていえることだと思いますが、実体のなさ、別の言葉でいえば、観念的といった性格が非常に強いということです。
…ですから実体としての伝統ではなくて、実体の背景になるようなかたちとか、観念とか、そういうものが継承されているわけです。「現代都市と日本の伝統―伝統の克服」1965年*9

まず彼は、従来の「日本」の住宅文化にみられるバラック指向を、実体性なきものとして非難する。これは僕のような怠惰な一面を持つバラック共感者にとって耳の痛い至言であるように思える。例えば僕たちがバラックについて抱く美学が、論理を構築しえない、まさしく本居的『自然』に傾いてゆくような代物であるとしたら、それは決して丹下をのりこえるような類のものでないことだけは確かにおもうから。

ただ過渡期にあたって、たいへん日本的な困った問題をよびおこしています。それは先ほど私が申しました日本の伝統です。我々の生活環境をバラックだと考える、バラックでいいのだと考えるそういう考え方が、いまなお根強くあります。それが一つには我々の生活環境を非人間的なものにしているわけであり、また都市の住宅地や郊外に広がりつつある住宅地を性格づけております。(前掲に同じ)

しかしその一方で、僕たちがバラックに対して抱く、「主体的」な場としてのイメージは決して、後向きというだけではすまされない意味を持っていることもまた確かなはずだ。実はそのバラックについての積極的なイメージは、丹下が行ったバラック批判を意識の上でのりこえようとしたときに生みだされたものであるから。

日本では現在都市問題がいろいろな角度から論じられておりますが、私は基本的には世界史的な、あるいは文明史的な大きな軸の中で考えてゆきたいと思います。…ただその過程で私達が人間疎外的に感じるいろいろな出来事がおきていますが、その大部分は文明の仕業ではなくて、我々自身の伝統の仕業であるというふうに私は考えているわけです。
…私は現代の文明は、新しい、人間的な価値をつくりはじめているといっていいと思います。決して現代文明は、人間疎外的でないといいきっていいと思います。(前掲に同じ)

この1965年の時点で、丹下健三の基本的姿勢は、方法論として、一見連続しながらも、以前とまったく逆の方向を指向しているように思える。それは丹下が自らの立脚点になんらかの変更を加えたものとみることができると同時に、執ように繰りかえしていた「近代批判」者としての丹下が、本居的な『自然』を批判する過程で、逆に本居的近代にかぎりなく近づいていった過程なのではないか。その過程をより具体的な建築手法の領域において検証してみよう。

*1:『人間と建築 デザインおぼえがき』p.78、80 また本稿で引用した丹下健三の言説のうち、掲載雑誌の記入のないものは以下の文献に編纂されているものを使用した。1、『人間と建築 デザインおぼえがき』昭和45年、彰国社。以後NKと略記する。2、『建築と都市 デザインおぼえがき』昭和45年、彰国社。以後KTと略記する。これらはいずれも代表的な丹下の言説をまとめている。NKが特に1950年代に書かれたものを、KTは1960年代に書かれたものを収録している。各言説の題名および発表された時期は、上記2点に記されているデータをもとにした。

*2:NK、p.198

*3:NK、p.124

*4:NK、p.284

*5:NK、p.286

*6:よくいわれることだが、丹下の言説あるいは作品が一見独創的でありながら、実は他の優れた諸表現からの「借り物」であるというような評価は基準そのものが完全に間違っていることを改めていっておかねばならない。なぜなら以上のような評価は、その分析方法として構造的に見ることのない表層的なものだからである。丹下の伝統論は彼の「建築構想論」の構造に深く連動しており、その点において少なくとも思想的にはたらいている。

*7:NK、p.129

*8:NK、p.129

*9:NKに所收。初出データによると、1956年6月、60年9月のそれぞれの『新建築』掲載記事と1965年におこなわれた講演会の筆記をもとに構成されている。雑誌掲載部分はごく一部にしか用いられていないので、引用した部分は65年時点の部分と考えて妥当と思われる。