本居宣長(1730-1801)

国学が現在でものりこえられるべき問題として残っているならば、それはひとえに宣長にかかっているということが過去の論者たちから指摘されている*1宣長二十代の処女作である文芸論、『排蘆小船』は次のような出だしで始まる。

歌は政治を助けるものでもなく、身をおさめる手段でもない。ただこころに思うことをよむ、という以外にいいようがなく、そこにうたの本来のすがたがある。*2

一見なんの変哲もない、またなんの意味をも持ちあわせていない言説だけれど、それを「日本的なるもの」としての歌学の根幹にすえることの価値は、国学者の根本的な批判対象として捕獲された「漢意(からごころ;つまり漢国=「外部」的なるもの)」という価値概念との対置によって初めてあらわれてくる。

漢意とは、漢国のふりを好み、かの国を貴ぶのみをいうのではなく、世の人々のおおかたが、あらゆる事柄の善悪是非を論じあい、物の理を定めるようにいう類の事自体全てが、漢の言葉から生まれる趣であることをも言うのである。
…何でも漢国の事ばかりをもちあげて、それをまねる世の習慣、千年余りにもなるので、おのずと漢国風の心が世の中に浸透して、人の心の底に棲みついてしまっている。その余りの普通さに、わたしは漢意など持っていない、これは漢意ではない、当然の物の理屈であると思うこと自体も、実は漢意から脱却してはいないのだ。『玉勝間』*3

考えてみれば、1.000年余りの間にわたって国内の人の心の奥底に棲みついている「漢意」を現象的に抽出することじたい、とてつもないこじつけに陥りそうな言いまわしを、いともたやすく言葉にできた、ということの不思議さは、「漢意」が観念として先行するナショナリズム―「外部―内部」的認識―を前提とした場の中でこそつかまえることができた概念だということを示している。
古来より「日本」が「大陸」から様々な文物を輸入してきた事実は揺るぎようもないものだが、実はそのような言い方こそ国学的な物言いであることに注意したい。仮想された、閉じた価値体系(国家)がなければ交通の前提が問われないからである。
ナショナリズム―「外部―内部」的認識―はそのような閉じた価値体系を観念の上で現出させる場を提供する。世の中にある海のものとも山のものともつかない森羅万象を、まず制度的に振り分ける必要があった。「漢意」はそのようにして、実体的なレベルにまで措定されようとした、「内部」において発見―発明―された「外部」である。
当時の体制の思想であった「漢意」としての儒学を、若い頃自分でも少しかじったことのある宣長にしてみれば、浅はかな儒学者たちの「外国かぶれ」だけがいやと言うほど目についたはずである。それは現在においても通底している「日本」という状況が持つ問題ととることもできる。そんな思想的状況を総て「外部」の中に放り込んでしまう意図を宣長は「漢意」の中に託していた。

つまり、漢土には、歌はあっても、うたはないのである。『排蘆小船』*4

言葉を「日本的なるもの」の追求のための研究対象とした陰には、宣長のするどい選択眼が隠されている。
日本的なるもの」というテーマは、「和魂洋才」の、僕たちの知る限り最初期の制度である、日本語という、「外部(漢字)」を素材に「内部」を残存させることの出来たシステムの上のみにおいてとらえてゆくことができる代物だった。
まず宣長は『うた』という言葉を『日本語におけるまさしく「日本的なるもの」のスピリット』として仮定する。そして漢文のルールで記述したときにすべて失われてしまうとされる『うた』の持つ「固有なニュアンス」を、漢文の、「偽り」、「飾りたて」、「断定する」語調に対置させる。そのやり方によって、日本における漢文のもたらしたとされる「物の理屈(=論理)」自体、いはば当時大勢を占めていた儒教という普遍的であった思想そのものを批判して行く新しい場所をつくりだしたのである。
普遍性を崩された「漢文」は「作為的なもの」として現れ、それに対置された『うた』のもつ優位性は、さきの「ただ心のままに」という言葉に代表される「無作為」の世界を創り出すことによって保証される。対置的に現れた反理性的な概念は、社会的に規定された「普遍」的な論理を嘲笑するかのような柔らかな、広い視野をナショナリズムの構造の基に準備した、かのように見えた。ただ心のままに事物を受け入れていくという「もののあわれ」はこの時点においては確かに「解放」の彼方へ照準をあわせたようにも見えたのだ。

歌は政治をたすけるものでもなく、身をおさめる手段でもない。ただ心に思うことをよむ、という以外にいいようがなく、そこに歌の本来のすがたがある。
…善悪教誡のことにかかわらず、ただそのときどきの思いをよんだ歌が多いのは、たのしみをねがい、くるしみをいとうのが人情の常であり、おもしろいことはだれにもおもしろく、かなしいことはだれにもかなしいからで、ただこころのままによんでゆくのが歌の本来のすがたである。よこしまなこころでよめば、よこしまな歌、好色のこころでよめば好色の歌、仁義のこころでよめば仁義の歌ができるだろう。『排蘆小船』*5

確かにこのような「現実」的な視点から「論理」の仮象性を批判する手口は、吉本隆明の初期の言葉を使うなら「生活思想」としての強度を有している。坂口安吾が、庭に置かれた石のことをくそカキベラでもあるし仏でもあるという禅問答のくだりを、くそカキベラはくそカキベラだと言われたらおしまいだと、その仮象性を馬鹿にしている*6が、そのような「当然さ」に対置させて論理自体を相対化してしまうやり方は、僕たちに日常的なクセでもある。しかしそのような攻撃は、「当然さ」を「論理」に対置させたときのみに生まれるのだから、論理という土俵の、外まわりから力士をやじっているようなもので、決して理論的に対象ののりこえをはかるものではない。つまり「当然さ」、「無作為」はどこまでいっても対置的な概念であるし、決して論理という土俵の中に入りこむことは許されないものだ。ところが、その何も言ってないこと、つまり「ありのままなること」が、不可避的に「内部」の思想的根幹にすえられ、「自律」した観念論として結実したとき、一転して悲劇をもたらす強固な論理構造として表れはじめる。
思想的根幹にすえられること、とは「ありのままなること」という非論理から、構築された体系、つまり「論理」が生じるという倒錯を示している。つまり言語領域総体に対置的であった「ありのまま」が、言語領域内に引き入れられることによって、「無作為…自然のまま」という言語外が、語られてしまうのだ。
「ありのまま」とはもはや現実という言語世界の外をぎこちなく、畏敬の念をもって伝えるのではなく、言語領域内に仮想された判断中止の領域として、形而上的に、時には暴力的に、いまや二重の枠に押し込められた「言葉」に対置する。そのとき、「ありのまま」と冠された、「内部」としての観念領域は他者からの検討、乗り越えを拒否する安易な隠れ家となるだろう。そのような「判断中止の領域」としての「内部」は論理が論理であるところの限定性とは対極の拡散性を生む。それは丸山真男が日本の思想の根幹を「理論が現実と同じ次元にたって競争するような知的風土」*7ととらえたことと同じであるように思われる。
そして重要なことは以上のような構造が、宣長をとらえて放さなかったナショナリズム―「外部―内部」的認識―より導かれた、といえることなのだ。つまり「内部」は「無作為」という倒錯をはらんだ言葉によって初めて、立った。そしてそれは、『自然』という「日本」的な概念装置と同義でもある。

*1:本居は、日本近代批評の分野においても継続して対象となっている。それら言及者の例として、ここでは小林秀雄吉本隆明、相良亨、柄谷行人らの名前を挙げることができる。

*2:責任編集石川淳本居宣長 日本の名著21』中央公論社、昭和59年の現代語訳を用いた、p.69

*3:現代語訳は中谷による。

*4:前掲の『本居宣長 日本の名著21』の現代語訳を用いた、p.93

*5:前掲に同じ、p.69、70

*6:坂口安吾『日本文化私観』昭和18年を参照のこと。

*7:『日本の思想』岩波新書、1961年、p.60