『方法論』をとおして

僕は、25歳で夭逝した詩人としての立原につきあう気がない。昭和12年、彼は帝大の建築学科を卒業するが、そのときに書かれた卒業論文である『方法論』*1から、立原の軌跡を追ってゆくことにしよう。彼は終章である「人間に根づけられたる建築の問題」において、その冒頭、建築は「壊れ易きもの」であるという。

…私たちはそのやうな壊れ易さを一般に言ふ物質の頽廃性とは同一には見なかった。建築が壊れ易いと言ふとき、私たちは、建築の理念が、果敢なさと虚無性の全範囲で把握されたこと、またその理念が藝術家の悟性を通じて個別性に移り行くとすれば、それが現実となり、同時に理念自体は無となること、そして無となるかかる瞬間に芸術の住居があること、言ひ換えれば「同一の」主観の「同一の建築」に対しての「同一の」経験は確実に繰りかへし得ず、従って建築體験なるものは極端に傷つき易い「瞬間的な」體験のうちにあることを、従ってそれらのことが「建築の壊れ易さ」を制約することを考へつづけたのである。『方法論』*2

そのようなモチーフの全てはいうまでもなく、「自己」概念の地平において獲得される。彼はここにおいて「自己」の行き着く先をすでに見据えていたようにも思える。つまり「自己」が現前するものとしてとらえられるならば、柄谷流にいえば「自己」の起源は隠ぺいされ、「主観vs客観」の二分法によって全ての現象が語られてしまう。僕たちは前章で「自己」が絶対化され、建築方法論の根幹にすえられることの陥穽を見てきたが、結局のところ、それは「自己」概念を弱体化させ、同一視という離脱回路によってなにか他者―たとえば『自然』―へのつながりを、枯渇する「自己」の内にみいだすことが「生」をかけての課題となる。だから、「全体人間」あるいは「普遍人間」というモチーフは、「主観vs客観」思考がもたらす「生」の相対的な位置低下を回避する最後の装置としてあるのかもしれない。

生の諸力は、一度び成立して生の妨害者となった芸術(建築を含んで、またすべての文化の形成物と呼ばれるものの一つとしてその中に含まれて―)に咬みつき、…古き形式を新しき形式で追ひやり、…結局は全文化様式(いふまでもなく、建築様式を含んで―)の絶えざる變易が行われる。かかるもの飽くなき生の無限の結實性の記号であり、恐らくはその結果であって生は死と成、生と死の間に動く。
…私たち人間の身体の文化価値は古今同一であり、物的生産物の文化価値も同一であり、また如何に内容がかはっても芸術の価値は同一である。*3

そのような地平、いわば表現することの実在的意味から立原は、モダニズムのテーゼの読み替えを要請する。

今や私たちは、私たちの現代の建築のイデアへの出發の日にふたたびこの言葉を理解しなほさねばならない。即、最後の大きな輪である人類という言葉の意味を。グロピウス自身解釈したのとさへちがった私たちの解釋をここに加えて出發せねばならない。…私たちが私たちを常に理解しつづけたように全體體験をもつ全體人間・普遍人間にまで溶解された「人間」なる意味を感得せねばならない。*4

彼が、当時の日本におけるモダニズム様式を嫌悪したことは、そこに疎外された「人間」像を見たからであった。なんとしてでも「わたくし」が表現することの意味をそこに付加しなければ、「生」自体が建築と全く無関係に、無意味に竣立してしまう、立原にとってみればそれは耐えられようもなかったのだ。
しかし「全体人間」というテーゼの内実の虚無性はいまだ払拭することはできない。
なぜなら「全体」という統一が、実は「何もいっていない」に等しいように、彼のロマン的な「合一」志向が反論理的な心情である限り、それ自体を汚濁させるような、「作為」が介在しなければ、方法論をたてることはできないから。立原の「生」への渇望は、彼が「手法」という「人工」の所作を堅持し続けないかぎり、実は「生」を無化する鏡でしかなかった。だから彼の前提としての建築は、「壊れ易きもの」だったのである。

*1:立原道造全集 第4巻 評論・ノート・翻訳』角川書店、1972年に所收、p.34~98を参照のこと。

*2:前掲に同じ、p.90、91

*3:前掲に同じ、p.92、93

*4:前掲に同じ、p.94