川添登とメタボリズム

メタボリズムは60年代を象徴する建築運動として知られている。しかしその史的定義は未だ確実にはなされていない。建築史家布野修司*1によれば、メタボリズムは、評論家川添登が中心となり1960年、東京において開催された「世界デザイン会議」を契機として組織されたプレゼンテーション・グループである。

メタボリズム』とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。
機関誌『メタボリズム』第1号

その中心メンバーには川添の他、建築家菊竹清訓、槙文彦、黒川紀章大高正人、グラフィックデザイナーの粟津潔等がいた。メタボリズム=新陳代謝の名の通り、彼らの活動は流動的であり、各自の方法論も多様である。一つの視点だけでメタボリズム・グループを総括することは、その可能性をもついばみとってしまうだろう。僕はここで特に川添の言説だけに焦点を絞って、その一側面をスケッチしてみることにしたい。

思えば日本における「1960年」の意味は、様々な次元で転回点的な意味を持っていそうである。しかしここでの興味は、日本の「民衆」運動に大きな挫折をもたらした「60年安保闘争」の、各表現分野における激しいまでの影響に集中する。大島渚はウェディング・テーマと偽って、安保闘争の挫折を描いた『日本の夜と霧』を公開、後4日で上映打ち切りにあったし、吉本隆明はその総括である「擬性の終焉」を書いて「民衆」マルクス主義者たちに訣別した*2
5月19日、自民党強行採決で、新安保条約通過。翌日、全学連主流派、首相官邸に乱入。
5月26日、安保阻止国民会議、第16次統一行動、17万人のデモ隊が国会を包囲。
6月08日、最高裁判所衆議院の解散の審査は司法の権限外と判決。
6月15日、安保改訂阻止第2次実力行使、580万人参加。
同日、ラジオ関東アナウンサー、警官隊に暴行されながらデモを報道。
同日、右翼、デモ隊に殴り込み、60人負傷。
同日、全学連主流派、国会突入をはかり警官隊と衝突、東大生樺美智子死亡。学生約4000人、国会構内で抗議集会、警官隊、暴行のすえ未明までに182人逮捕、負傷者1000人以上。
6月23日、新安保条約批准書交換、発行、岸首相退陣の意志発表。
思想家吉本隆明は、6月15日のデモに於て、人々の表現しえぬほどのたかまりの中で国会に突入を図った直前、あるマルクス主義の一派がゆくてを阻んだことに、その「民衆」像のからくりの脆さを痛感した。そしてその吉本の心情だけは川添にも共有されていた。

同年4月、ソニーは世界初のトランジスタ・テレビを発表。

■『建築の滅亡』にみられる危機意識

人類文明はいま大きく回転しようとしている。《小鳥のように自由》な労働者の支配する社会に、《建築》がありえるだろうか。少なくとも《永遠性》を特長としたような、これまでの建築が必要であろうか。
…将来の住宅は、部品化され、《都市構造体》にとりつけられるが、工業生産化された部品は、規格体系とジョイントによって、無限な組合せが可能になるであろう。人々は、自らの趣向に応じて、形と色と材質を適当に選び、必要な規模の自由な大きさに組み立てることができるようになる。家族の発展と変化、あるいは気候や気分の移り変わりに際して、取り外しては、また組み立てるに違いない。                    『建築の滅亡』1960年

歴史的といえる川添の著『建築の滅亡』*3の中で、そのトーンの基調をなすものが、「建築=シンボルの滅亡」以前に「民衆像の滅亡」であることは、ぞんがい認識されていない。その以前、熱烈に「民衆建築家」の理想像を追いもとめていた彼は、ここで6月15日のデモを引き合いにだして、その追求の挫折を味わっている。

学生たちは、門を壊し、塀を倒して、その構内(註:国会議事堂内)で抗議集会を開くこと。それがテレビの電波に乗り、映画館のニュースで上映されたとき、全国民は、議会は国民のものだったということに気づくであろう事を信じていたのであろう。
しかしそうなることは、すなわち議会が、国民総意のシンボルになること、これは岸政府にとっては許せなかった。彼らにとって、そのシンボルは、あくまでも塀で囲まれた、国民と縁の切れた姿をした議事堂でなければならなかった。そこで警棒はうなりを生じて、若き議会主義者たちの頭上に振り下されたのである。…国会議事堂は、大日本帝国のシンボルであり、民主主義の墓場であった。

例えば布野はその著書*4の中で、『建築の滅亡』に対して、それなりの説得力を持ったものとして、しかし次のように曖昧な評価をくだしている。

彼は、70年代の半ばに至って過去を顧みながら、自らの50年代の伝統論もまた建築が解体しつつあるという危機感の現れとして、それに対するはかない抵抗として述壊するのだが、確かに彼の感性は、繁栄の60年代の出発時において、とりわけ鋭く際立っていたのである。メタボリズムは、その透徹した感性が建築の解体を先取りすることにおいて孕み落されたのであった。すなわち、メタボリズムは、〈近代建築〉の解体のみならず、《建築》そのものの解体をラディカルに(?)志向することによって成立したといってもいいのである。

しかしもはや僕たちは、以上のような解体志向が本居的なニヒリズムにうらうちされたものであることを知っているし、彼のメタボリズム追求の底流に流れる危機、挫折意識を批評しなければ、メタボリズムの営為はくずれてしまうだろう。僕は川添の解体志向に、ちょうど戦前のマルクス主義運動の挫折の落し子である、日本浪漫派と同一の匂いを感じとってしまう。もしそのカンが妥当なら、彼の規定したメタボリズムになんらかの「回帰」意識があると仮定してみるとおもしろい。吉本は「擬性の終焉」を書いた後、「日本」から解き放たれんがための作業を自らに課した。一方で川添の場合、アイロニカルではあるが、「日本」的現状への全肯定という「日本回帰」の常套パターンをたどった形跡が散逸しているのである。

■川添による「民衆建築家」のイメージ
川添は、「60年」以前、雑誌『新建築』の編集部に在籍しながら評論活動を続けていた。そのころの彼の評論にあらわれた特徴は、その論理を組み立てる要としてのマルクス主義-民衆への信奉-民族主義という回路である。
一般に川添の編集者としての業績とされる「伝統論争」において、彼自身の建築に対する評価は「いかに日本の民族を表現するものとして妥当であるか」の一点に絞られている。
特に日本浪漫派に対しての心情的な面でのシンパシーは、丹下の大東亜記念造営計画案のモニュメンタリティーを通して、「民族の造形」の必要性を強く主張するにいたる*5。川添にとって「民族」は「神」であり、「民族」を批評停止の領域におしあげ、その結果「民族」にまつわる安易な論理展開を許容している。そのような「民族」指向は、「日本」的マルクス主義における「民衆」像と通底し、川添において、マルクス主義ナショナリズムの統一行動は、心情的に最高の高ぶりを見せている。川添は機能主義を近代的フォルムを日本の現実に押しつけようとした*6と断罪し、進むべき建築家像を、当時設計における共同作業や現実的な生産様式からの建築構想の方法を検討していたミド同人*7に見いだし次のように言う。

土の中から養分を吸い上げて生え出る樹木のように、日本の生産方式や労働形態、国土に産する素材、民衆の生活感情の内部から出発し、しかもそれらの正しい発展を促進させる方向を指し示すものとして、現実の中から逞しく成長する建築を求めたのである。・・・彼らの意味した〈技術〉とは、全国民的な規模の広がりに根を張り、そこに潜在された種々のエネルギーを発掘するものであり、一方では、その上に生い立つ建築の造型を探るものであり、従って民族の生命力の延長と考えられるのである。「国民建築の創造―転換期の導火線」*8

このような「民衆」に拘泥しようとする姿勢は、ちょうど当時の「民衆論争」における西山のような―「民衆」に呼びかけてみても「民衆が建築家の努力に対してほとんど反応しない」*9―ジレンマを生みだしてしまう。

■挫折のすえに
60年以降、つまり『建築の滅亡』で著された「挫折」以降、彼の評論の激烈さはあきらかにトーン・ダウンしている。1962年1月の『思想』誌上で、与えられた「国民文化の形成」*10というテーマに対し、川添は次のように述べる。

…私は、国民文化の問題を考える出発点は、自分自身の感情を偽ることなく、むしろそれを深く掘り下げてみることから始めるべきだと思うのである。*11

なぜなら、川添たちの建築の仲間が、東京の現状を批判し、理想的な都市像を描いてみせるのに、たいていの人たちは納得してくれないばかりか、ひどいときはつるし上げをくらったから、と川添は言う。

人びとは、東京が近代都市の形態をなしていないことを百も承知している。そして朝夕の通勤ラッシュや、自動車の混乱に、ほんとうに困らされ、つらい思いをしている。しかし、東京に住む人々は、東京の悪口を言いながらも、心の奥底ではその欠点を含めてそれが好きなのだ。…そして考えてみれば、私自身も全く同じような感情を持っていることに気づかざるをえなかった。(前掲に同じ)*12

一見当然そうな「論理」だが、このような「なにも言ってない」反論理が、論理構築の基底をなすような倒錯した方法論の陥穽を僕たちはいままで、何度も目のあたりにしてきたはずである。またより注目したいのは、メタボリズム華やかなりしころ、川添がこのような論理放棄ともとれる発言をしていることだ。もちろん川添がメタボリズムに反旗を翻したとするなら事態はより容易だが、もしその「反論理」がメタボリズムの思想的根幹とふかく連動しているならば、そこに倒錯を見ないわけにはいかないだろう。メタボリズムが方法論上の運動である以上、そこに介在する論理はいわばいのちであるにも関わらず、なお「論理」自体を相対化するような発言が許容される、とすれば、メタボリズムの論理的特殊性ははからずも「日本」的なのではなかったか。

両親はプライバシーのないところに本当の個性が生まれないことを知っており、子ども部屋の造れない中で、たとえ部屋が狭くなろうとも、勉強机を置いて、その幼い個性を尊重しようとする。従ってそれは個性のシンボルであり、抵抗のシルシであるから、畳の部屋に不調和であることが当然であり、それゆえに存在価値を持つ。(前掲に同じ)*13

以上のような「論理」を僕たちは認めることはできない。それは近代日本における近代性への絶望の果てに、その照り返しとして無批判に論理を解体しようとする思考メカニズムであり、いわゆる日本回帰の典型である。

私たちは現在の住生活が混乱し、無秩序であることに、むしろ将来への希望を見いだす。都市の混乱も同じであり、その喧騒の中に、国民のたくましいエネルギーを感じなければならない。(前掲に同じ)*14

『自然』概念との連関によって獲得されたこのような「無秩序の美学」、その現在にまで近代「日本国」建築の局所的な主流を占めている美学に対し、僕たちは自らをさえ振り返ってみなければならない。そして「無秩序の美学」が、『自然』としての現実に対処しようとするときに表れた、「新陳代謝し、無限に成長してゆく都市に対処してゆこうとする」建築方法論の必然性を鼓舞するとき、ニヒリズムメタボリズム思想の根幹に抵触したはずである。

メタボリズム

…都市はもはや堅固とした形態を持っていないのである。この点に関する限り、磯崎新氏が現代都市を幻影の都市と呼んでいるのは正しい。たとえ高速道路や高層建築が、その巨大な造形を誇ろうとも、それらは巨視的にみれば、一瞬のうちに消え去るテレビの映像のように、うたかたの幻影に過ぎぬともいえるのである。
私たちはこうした観点を数年前にもち、たえまない新陳代謝(メタボリズム)こそ現代都市のあり方であると考え、都市の全体像を否定し、これからの都市計画にマスター・プランはありえぬとし、必要なのはマスター・プログラムであると主張してきた。そして1960年の世界デザイン会議東京大会を前にして結成したのが、グループ・メタボリズムであった。
しかし私達は磯崎氏のように、「都市を幻影とし、建築家にとって、最小限度に必要なのは彼の内部に胚胎する〈観念〉」とはしない。現代の都市は、あくまでも物質的な存在であり、その巨大な物質的なメカニズムに人間生活を適応させ、また、進んで人間生活にその物質的なメカニズムを適応させようと考えるのが、メタボリズムの方法論である。「文明の変身」*15

*1:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房

*2:吉本隆明著作集』13政治思想評論集、勁草書房、昭和44年、p.47

*3:現代思潮社、1960年

*4:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房、p.32

*5:川添登『現代建築を創るもの』昭和33年、彰国社に所収された「民族主義の革命―原爆時代の抵抗」p.63~84を参照のこと。この本は「60年安保」以前の彼の言説を中心に加筆、編纂されている。以後GTと略記する。

*6:GT、p.164

*7:《ミド同人労働組合前川国男建築設計事務所と横山不学構造事務所らが中心となって結成された建築計画組織。

*8:GT、p.165

*9:西山夘三「建築を国民に結びつけよう」。『建築文化』119号、昭和31年8月、特集「建築設計家として民衆をどう把握するか」に所収。

*10:論文掲載雑誌名および発表時期は、彼の「60年安保」以降の代表的な言説をおさめた『建築と伝統』昭和46年、彰国社に添付されたデータによっている(p.260および本文)。以後KDと略記する。

*11:KD、p.211

*12:KD、p.211、212

*13:KD、p.219

*14:KD、p.219

*15:『展望』1962年7月号、川添登『現代のデザイン』1966年、三一書房に所収,p.223、224