以前僕がまだ大学に入りたてで、建築のケの字も知らなかったころ、とある銀座の名画座で、「24時間の情事」*1というフランス映画を見た。

岡田英次ふんする日本青年と、大戦の傷跡を背負ったフランス人女性との、戦後のヒロシマを舞台にしたメロ・ドラマなのだが、僕はこの薄暗い映画館の中で、建築というものについての深い学習をするとは思ってもみなかった。
ちょうど、僕が大学に入った頃(1982年)、ポスト・モダニズムの動きが潮流として定着しつつあった。僕はそんな建築界の運動など、全く眼中になく、というか興味すらも持ちあわせない劣等生だった。ただ、近代建築に対する壊疑だけは自分が育ってきたそれまでの20年間に、身をもって体験してきたようなところだけがあったから、しいていえば「建築」と名のつくもの全般に対する一定の距離をとる姿勢がそんな新しい運動を知ることすらも、拒んでいたような気がする。重々しい打ち放しのコンクリートなど、何をかいわんやという感じだったのである。

映画の話に戻ろう。冒頭のシーン、初めての情事を送った後の広島の朝。青年がバルコニーへと足を向ける。そこから見える広島の風景は未だ焼け野原のままといったような状況で、そのほこりっぽい風景はあたかも地平線まで続いていて、ポツポツと簡易住宅の落とす影が夏の強い日差しによって、一層強調されて見える。すると突然、青年を映していたカメラがパンして、彼らのホテルを俯瞰しながら後方に見える、巨大な広場に屹立している一つの建築を映しだした。
荒々しい太い柱によって保たれたその意志の塊は、焼け野原の中で一際日の光にうたれているかのようだった。その乱暴なまでにシンプルなコンクリートの打ち放しは、荒土と化している大地の上でその何もかもが必然であるような気さえしたのである。
僕はそれが丁度黒沢明の戦後の映画に出てくるような、泥沼の中で豪放に生きぬいていくような人間像と重なって、戦後の精神をかいま見たような気がしていたのかもしれない。つまりこのシーンの強烈な印象は、忽然と廃虚に現れた闇屋の主人と建築とが、向いた方向は全然逆であったけれども、その初源において同じ大地に立っていたことを暗喩していたからのような気がする。
何はともあれ、僕は建築と握手できるチャンスを持ったのだった。主人公のフランス女もつぶやいた。
"Hiroshima Mon Amour"、そしてピース、広島平和会館よ。

僕はこの章をもって一応の決着をつけたいのだ。近代「日本国」建築において、建築家丹下健三ほどその評価がまちまちである建築家も珍しいような気がする。それは丹下に正当的な検証が未だ加えられていない事実に起因している。おそらく彼はつきるところ、何トナク嫌われてはいるが、その問題点を明確に提出される事なく、何トナクちょっとだけ引退している観がある*1。またそれは60年代に近代「日本国」建築を席捲したメタボリズム一派に対する現在の評価も同様といえるだろう。
それは彼らの持つ方法論の強度を証明しているようにもとれる。その方法論が問われずじまいできたことはもったいないような気もするし、逆に今後その構想力にシッペがえしをもらうなんてことにもなりかねない。この際僕たちは丹下健三たちと握手をすべきなのだ。つまり僕たちと彼らとの何らかの連続点をみすえないことには、のり越えはありえないから。そんな意気込みで、アウトラインをちょっとだけ引いてみることにしよう。

*1:この原稿執筆時期は1988年度である。

4章 何トナク反メタボリズム

4・0・1 はじめに
4・1・1 東京計画1960まで
4・1・2 民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関
4・1・3 伝統論争…「篤胤的なもの」
4・1・4 モデュロールとコア・システム
4・2・1 東京計画1960以降
4・2・2 「ノリのような建築」
4・2・3 川添登メタボリズム
4・2・4 東京計画1960

「大東亜記念造営計画」の意味

近代「日本国」建築のなかのいくらかの人びとが、心の中で「戦犯」的だと感じていたかもしれない丹下のプロジェクト案としてのデビュー作、「大東亜建設記念造営計画」*1における1等賞は史的にも評価が分かれていた。たとえば戦後建築界が「戦争協力」の一言でかたづけていた当時の動向を、評論家井上章一はこの案についての当時の妥当な意見をとりあげることによって、けっして彼らが「戦犯」的ではなかったことをほのめかしている。*2

よく申せば作者は賢明であった。悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせよこの作は金的のねらい打ちであったと申してよいと思ふ。前川国男「競技設計審査評」『建築雑誌』1942年12月

しかしこの案ならびに当時の丹下周辺を、当時の政治的意図とは無関係とし、かつ80年代の日本のポストモダニズム現象の源流に位置づけようとした井上のまとめ方*3は、たとえば「政治」と「文学」とを隔てることが本質的でないことと同じように表層的なものだ。本稿は「大東亜建設記念造営計画」に、建築論「MICHELANGELO頌」とのきってもきりはなせないような関係を求めることができるからである。

我々はかかる意図のもとに日本の最も崇高なる自然である富士の裾野をえらびそこに大東亜建設忠霊神域を計画し東京と1時間〈時速70粁〉の距離にて結ぶ大東亜道路を建設し、それを主軸とせる広大なる地域に亘って大東亜政治の中枢となるべき都市建設に対して過当なる位置を与え〈東京の膨張を防がんとす〉『建築雑誌』昭和17年12月

この、的確な説明ぶりに充満する作為は、日本浪漫派の心情とは全く反対の冷醒さ、また井上が指摘しているような、計算高さをも併せもっているだろう。確かに丹下の提案は、「断然他を圧し一等当選」するほどの内容の大胆さを持っていた。井上は、丹下のそのコンペにおける大胆さは決して無謀ではないことを強調している。例えば神明造りの神社をモチーフにしながら、装飾的な千木を取り除き、同じく装飾的な勝男木はその再解釈として、天窓に改造される。そのようなモダニズム的手法は、「大東亜造形文化の飛躍的高揚」という課題に「見事に解答」していた、という*4
しかし僕は、その設計態度がモダニズム云々のまえに、「MICHELANGELO頌」で獲得された構想の地平によってはじめて可能にされたものであることを主張したい。丹下は彼だけが入ることのできる壮大な実験場を仮設したのであり、ここではさまざまな「世界」の要素が、無限定にとりこまれ、彼自身の基準によっておもしろいように再構成されえるのである。それはもはや「転向」とか「戦争協力」とかいったたぐいの話ではない。彼は「神」なのだから。
僕には以上のような丹下の特質が、平田篤胤の持っていた危険な、しかし柔らかいイメージにだぶって見える。そこには「もののあわれ」の虚無も、「自己」がもたらす束縛もみあたらない。皮肉なことに「戦争協力」者と蔭でささやかれ続けたこの時期の丹下によって、「日本」はことごとく素材と化したように思える。

昭和20年3月09日 東京大空襲、23万戸消失、死傷者12万
     4月01日 米軍、沖縄本土に上陸
     6月30日 花岡鉱山事件、強制連行中の中国人450人虐殺される
     7月18日 ソ連終戦仲介依頼拒否
     8月06日 広島に原爆投下
     8月09日 長崎に原爆投下
     8月12日 北村サヨ、踊る宗教開教
     8月15日 正午、戦争集結の詔書を放送

「神」の顔をした闇屋の真価はこれ以後、発揮されはじめる。

*1:昭和17年に当時の建築学会が主催した計画案コンペ、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」(『建築雑誌』昭和17年7月号、p.2、3)を募集した。

*2:『アート・キッチュ・ジャパネスク』青土社、1987年、p.259。本文中の引用、およびそのデータも同書によっている。

*3:「この企画は、後世から戦争協力の例として位置付けられる。そして、確かに、この企画にコミットした建築家たちは、大東亜戦争を賛美した。しかし彼らは、ただ賛美しただけである。戦争遂行に関する具体的な協力は、なにもしていない。いや、むしろ非協力的だったとさえいえる。戦時下の建設活動に背を向けて、空想図面を夢に見る。この姿勢は、ありていにいって戦争から逃避しているもののそれにほかならない。」前掲書より、p.202

*4:前掲に同じ、p.258

仮構された「近代の超克」が生んだもの

表現とは単に客観的なものの模写ではなく、客観的なものと主観的なものとの、内的なものと外的なものとの統一として形成されるものが単に人間的に止まらぬ超越的な客観的な意味を有するところに表現がある。そのことは人間的存在が屬々誤解される如く単に主観的なものではなく、形成的創造的世界の形成的創造的要素として働くものとして実在性を有するに依るのである。芸術家は単に任意の対象を描かうとするのではなく、却って芸術的意味を含んで表現的なものとして彼に呼び掛け、彼に表現を迫るものを描くのである。
三木清『協同主義の哲学的基礎』昭和14年、昭和研究会*1

「近代の超克」座談会を主催した雑誌『文学界』の同人でもあった哲学者三木清の、丹下の論文と同年に発行された「協同主義」は、「唯物論と観念論との抽象性を克服した具体的な立場」と規定されている。
しかし三木の言説は多義的である。彼はマルクスの影響下から転向をへて、超克者としての西田哲学へ接近するにつれて、新たな世界認識の方法を模索していた。彼の昭和10年代のおもな作業は、「客観vs主観」、いいかえれば「社会vs自己」という決してうちとけない両者をいかにつなぐかということに眼目がおかれていたように思える。彼はハイデッガーの、世界―内―存在としての人間という定義を援用しながら、以上のような二項対立そのものをもくつがえしてゆこうとする。

…従来の主觀・客觀の概念においては、自己は主觀として存在でなく、一切の存在は客觀と見られる故に、自己は世界のなかに入つてゐないことになる、世界は自己に對してあるもの即ち對象界と考へられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考へられている。かやうな主觀は一個の抽象物であつて現實の人間ではない。現實の人間はつねに世界の中にゐるのである。我は世界の中にゐて他に對してゐるのであるが、我に對するものはなによりも汝である。我は汝に對して我であり、汝なしに我は考へられない、そして汝は單なる客觀ではなく主體である。即ち主體は主體に對している。『哲学入門』昭和15年 *2

このような言説は「主観vs客觀」をのりこえるヒントとして、ますます「観念」的になりつつある現在においても、実際に建てざるをえない建築者―社会に行為せざるをえない者―にとって、おおくの示唆をあたえてくれている。しかしそれはちょうどハイデッガーの思考がナチズムを許容したといわれているように*3、結果として「自己の社会的な絶対化―国家」という皮相な誤読を―三木自身でさえ―可能にさせる。その誤読は、ほんらい二項対立そのものをのりこえるはずであった方法を、あくまでも二項的に語ってしまうという認識的な限界にその原因をもとめることができるだろう。丹下は彼の視点の多くを当時の三木の作業の中から見いだしたように思えるが、以上のような理由によって、彼が何をこれらの言説からひきだしたかについて、さらに検討しなければならない。
三木は、唯物論と観念論との対立を止揚しようとした「協同主義」について、その核心をまた、個人主義全体主義との二元論をも超克するものと読みかえている。それはさらに、「西洋」と「日本」という対立をも統一しようとした作業であったように読むこともできるだろうし、丹下が「世界の根底の意志」によって「ディオニソスとアポロという西洋」をも超克しようとしたことともパラレルであった。しかしその「超克」は、丹下において、あくまでも「天才という主観vs世界という客観」という、超えるべきものであった二項的な認識の下においてくりひろげられたのである。それは、いわば仮構された「近代の超克」にほかならなかったのではないか。建築論が、建てざるをえない者の論理としてこそ、独自の価値を見いだされるとすれば、その生成の場所としてのこの世界存在を、僕たちに関係のない客観的存在としてではなく、表現されたものの重なりあいとしてみることは恐らく前提である。以上のような意味からすれば、「MICHELANGELO頌」の時点においての「天才」論は、建築論として完結するためのてだてをいまだ持ちえていなかったようにもみえる。
当時三木は、「技術」について、以下のような発見的な作業をおこなっていた。

ところで一つの技術は他の技術に對して手段であり、このものは更に他の技術に對して手段であるといふやうに考えてゆくと、諸技術の間に目的・手段の関係における聯關を認めることができるであらう。…諸技術を總企畫的に支配するものはそれ自身一つの技術であり、政治はかくの如き技術である。ところでこのやうに諸技術の間に階層的関係を考へる場合、注意すべきことは、何等かの技術は單に目的であつたり單に手段であつたりするのでなく、それぞれの技術が一方目的であると同時に他方手段であるということである。どのやうな技術も單に手段であるのでないやうに、單に目的であるのでない。『技術哲学』*4

観念を技術という行為的な存在からきりはなしてしまう思想、三木はそれを批判した。たとえばアプリオリに上部構造を「観念―主観」としてとらえ、下部構造を「社会的実体―客観」として規定してしまうと、たとえば技術思想という、社会―内―観念は存在しないものとされてしまう。と同時に、上部構造としての「観念」はいつまでも「実体」に言及しえない―僕たちは「実体」をまえにしてなす術がないのである。しかし建築論を三木のいう「技術」的な存在として見れば、両者の関係はたがいにきりはなすことのできない関係として語ることができる。そして様々な階層で完結的に存在している諸「技術」―「観念」をも含めたすべての存在―が、実はたがいに全体と部分とを構成しあいながら関係しあっていると三木は言うのである*5。このような「技術世界」像は、確かに方法的な可能性をもって現在に対しているように僕には思える。
話を丹下にもどそう。三木の言う意味での全体としての「建築的観念」と、部分としての「建築的手法」によって構成された技術としての建築論は、『近代「日本国」建築』のように、「観念」だけが「自律」的な変遷をたどった系譜においては、それほど蜜月な関係をともなっていない。両者のあいだによこたわっている恣意性の海を前にして、僕たちはいったんニヒルにならざるをえない*6
しかしそのニヒルな恣意性は、さししめされる手法を主体的に選択しえるという読みかえにおいては「可能性」として映るだろう。丹下はその主体的な読みかえを、「天才」と呼んだ。「天才」という架橋的な存在は、空虚な「内部としての自己」のうちに「外部としての世界」を限りなくとりこむことのできうる地平をもたらしたはずである。その特質を、本稿では世界とのかかわり方において、「篤胤的なもの」ととらえ直すことができるだろう。彼の建築的手法の発見はこの地平からはじまったように思う。
ただしその手法はいまだ、三木が構想した、「日本国」を超克する認識としての、技術的世界にはなりえていなかったことをつけくわえておきたい。なぜなら丹下のいた場所は、彼だけが入ることを許された、「新たな」場所にすぎなかったからである。

*1:三木清全集第17巻」岩波書店、1968年に所收、p.571

*2:三木清全集第7巻」岩波書店、1967年、p.14

*3:ヴィクトル・ファリアス著『ハイデッガーとナチズム』名古屋大学出版会、1990年参照

*4:三木清全集第7巻」1967年、岩波書店、文中p.222

*5:三木清全集第7巻」1967年、岩波書店、文中p.235

*6:ただその海は仮構された「観念」から導かれたものであるかぎりにおいて、言葉のかかえる本質的な恣意性には程遠い。

「MICHELANGELO頌」再訪

基本的に、「MICHELANGELO頌」は立原の『方法論』の骨格を受け継いでいる、といってよい。

生の諸力は、一度び成立して生の妨害者となった芸術に咬みつき、…古き形式を新しき形式で追ひやり、…結局は全文化様式の絶えざる變易が行われる。かかるもの飽くなき生の無限の結實性の記号であり、恐らくはその結果であって生は死と成、生と死の間に動く。
…私たち人間の身体の文化価値は古今同一であり、物的生産物の文化価値も同一であり、また如何に内容がかはっても芸術の価値は同一である。
今や私たちは、私たちの現代の建築のイデアへの出發の日にふたたびこの言葉を理解しなほさねばならない。即、最後の大きな輪である人類という言葉の意味を。グロピウス自身解釈したのとさへちがった私たちの解釋をここに加えて出發せねばならない。…私たちが私たちを常に理解しつづけたように全體體験をもつ全體人間・普遍人間にまで溶解された「人間」なる意味を感得せねばならない。『方法論』

と立原が言うとき、そこにはあきらかに「全体人間」いわば、「天才」への希求があった。その地平から近代建築の普及性が「生」を拒むものとして批判されるとき、丹下による同様の近代建築批判も理解されえる。丹下は「MICHELANGELO頌」において、ミケランジェロコルビジェという二人の「天才」を援用して、その強度を鼓舞するが、丹下のそのようなモチーフは立原のいう「人間の身体の文化価値」あるいは「生の諸力」を前提として繰り広げられていることは言をまたない。しかし、ここで問題にしたいのは彼らのあいだの差異にこそある。

■『方法論』(立原)と「MICHELANGELO頌」(丹下)その差異
立原の『方法論』における「天才」への希求は、「主観vs客観」、「自己vs社会」という二項対立よりひきおこされる、「生」の相対的な位置低下を回避する最終装置としてあった。そこでは畏敬の念をもって「天才」の可能性を示唆しているにすぎず、彼の最期においては、もはや「天才」指向そのものを破棄し、単独の表現者として、その衿持をただすことに可能性を見つけていったように思われる。しかし丹下はそれとは異なっている。

尚ほも、Michelangelo は一人の主観的芸術家と評し去られねばならないであろうか。彼の自我は高く彼の自我であったが故に、反って存在の深淵から聞こえては来ないであろうか。破壊の喧燥からも、建設の叫喚からも遠く、静寧に歴史が立ち停ったかに見えた時、彼の自我の内に、歴史の尖端の焔はもえ、歴史は究極の、貴重なる一歩を上昇したことを想へ。それは経験的実在的人間の自我とは同一ではない。むしろそれは存在の根底にある唯一の自我であり、その写像に於て彼は新たなる存在を建設するのである。「MICHELANGELO頌」

また彼はコルビジェミケランジェロと同様の「使命」を持った人として、こう述べる。

最高の使命の故に、壮大な孤独の中にあって、唯一人変貌し、転身しつつ創造し行く人、真に獨創する人にみられるあの暗き悲哀をさへ、そこに見る心地がするのである。(前掲に同じ)

彼は「天才」の存在を自明のものとする地点から話をはじめる。この点によって、丹下が立原の桎梏―「天才、全体人間」は希求されえるが、おのれは二項対立における「自己」をぬけでることができないというジレンマ―を感得しなかったことを理解することができる。丹下は一見らくらくと、昭和の知識人のジレンマをとびこえてしまったのである。

■「天才」の誕生…「私性」から「神性」へ
そのとき、「私性」は「神性」になった。丹下は「開かれた自我」へとみずからを跳躍させる。

吾々は如何なる思考の方法をも、彼を前にしては断念せざるを得ない。内奥には劇がある…
―余りにも豊かである故に、詩人は過ぎ去りしものを思ひ、来るべきものを待ちのぞむことに於て疲れ果て、この外見上の空虚の中で、しばしばただ眠りたいとねがふ。けれど彼は、この夜の無の内に固く立っている。詩人はかく自己の使命の故に最高の孤独の内にあって自己自身のもとにとどまっている。(前掲に同じ)

と、丹下はハイデッガーの一文を引用しながら、ミケランジェロの「自己」の絶対性を説く。しかしこのような思考は、ひいてはそれ自体を弱体化させることを僕たちは何度も検証してきた。例えば分離派はその様相を前にしてたちどまってしまったし、浪漫派は「自己」の惨落とともに、自らを共同体あるいは『自然』への還元にむけていなおりをきめこんだ。それらのデスペレートな「敗北」には、日本的特殊性としての「ありのままなる自然」という観念が、内部で強固に作動していたからだ。彼らは「天才」であるには、あまりに日本的に常識的だったのである。しかし丹下は、あまりに簡単に「天才」をつかんでしまった。

すでに時代の喧燥と叫喚と言へど、Michelangeloの深き睡りを醒ますことは出来ないであらう。彼は彼の内から醒めねばならぬ。歴史が新たなる時刻の焔を深く彼の内に燃やす時、彼の自我は新らたに醒めるのである。我々はその瞬間を「決断」と呼ぼう。(前掲に同じ)

丹下はミケランジェロを通して、「自己」内に、「自己にとっての外部」であるはずの「歴史」を無限定にとりこんでゆこうとする。しかしそれは「時代の喧燥と叫喚」という現実としての「外部」ではない。
「歴史」とは幻想でありながら「真なる外部」として機能することによって、それに揺り起こされた新たな「自我」を、決して「外部」に融解されえない「新たな絶体」として規定する。つまり「決断」とは花である。そして花はこちらがわにあるのだ。

…Nietzscheも亦ギリシア文化の根底に隠されたる根源力に想いを駆せたのである。…それは動乱狂酔、生成の神デイオニソスである。…可視的表象の世界の誕生に先立つて根底にはデイオニソスは憧憬し、渇望しなければならない。総て創造には、自身無形相でありながら、限定へのたへがたい衝動を内に含むものが先立たねばならない。
…創造の根底に大いなるパトスがある。このパトスは本質への飢餓であり、自身無形相でありながら、その無限定から限定への耐がたい要求を内に含む所の、光を待つ夜の姿に於て、吾々の思考に近づいて来るのである。(前掲に同じ)

おそらくニーチェの『悲劇の誕生』は、丹下に多くの示唆を与えたと思われる。「造形神・アポロvs音楽神・ディオニソス」という有名な二項対立は、混沌としたディオニソス側に花をもたせることによって、激情的な芸術家に広く歓迎されている。丹下はそれに準じながらもなお、先の二人の神性を統一し、包括する全てに先立つもの―「世界の意志」「根底の意志」―を設定する。
「自我」を超えた「世界の根底の意志」のなかで、創造することのできる「天才」は、「歴史的使命」を背負った者として参画する。「創造」は、無限定な「世界の意志」―とりこまれる外部性―から、限定的形象―とりこむ者としての自己―へ向けての架橋である。

然し、単に夢見つつ、夢遊病者の如くに創造は遂げられ得ない。…完全に醒めたる、歴史的な眸が参與しなければならない。…彼は一切の歴史の負荷を背負いつつ、それ故に、―未来の空虚な暗に向かって―世界からの衝動に促され、世界史の深く傾向的なもの(Lanke) を身に受けねばならない。かくて、彼は、未来と過去を、現在の一点に賭けて決断へと強いられるのである。…かくして自我の底が破れて、反って自我ならぬものから、新らたなる、より高き自我は誕生し来るのである。この生誕の不安を身に受けること、それが決断であらねばならぬ。(前掲に同じ)

単に「夢」を見ているだけでは「創造」はうみだしえない。そこに「完全に醒めた」「歴史的な眸」が必要だ、と丹下はいう。ここでも丹下は負けることはなかった。「世界の意志」を見る眸はわたくしの方にあるからである。そしてその眸は「完全に醒めている」、もはやその虚構の形而上にロマンティックに傾いてゆくこともない。「天才」は既に一個人ではなく、自我ならぬもの、「世界からの衝動」によって動かされ、「無意識」に創造をなし、「世界の根底の意志」の見る二つの矛盾した夢―アポロンディオニソス―を止揚することが彼の「歴史的使命」となる。またくわえて、彼は「アポロンディオニソスという西洋」をも「世界の根底の意志」によって超克しようとしている。
しかし同様の思考が、「近代の超克」前後にもあった。

「私性」から「神性」へ…戦中期における丹下の意味

ここまで書いたら丹下の特質がはっきりとあらわれてれてくるだろう、と思っている。
立原は「人工としての白い花」の中に絶望とある安寧をもって死んでゆく。浪漫派はラヂカルな居直りの果てに望んだがごとく惨落していった。それにくらべて、丹下は強かった、といえる。

…それは静謐なる歴史の時刻であった。どこか醒めた自我の内に、歴史の尖端の焔は燃えた。その時歴史は究極の、貴重なる一歩を上昇した。
MichelangeloとLe.Corbusier、一見相反するこの二つの名は、上昇する姿に於て、時間という荒寥なる間隙を通して相寄る。「MICHELANGELO頌」昭和14年*1

と、とんでもない華々しさで始まる丹下健三の建築論デビューである「MICHELANGELO頌」は副題を「le Corbusier論への序説として」として、昭和14年の雑誌『現代建築』(日本工作文化連盟発行)に、コルビジェ論として発表された。
丹下は後に当論の意味を、「衛生陶器」のような感動のない「近代建築」だけではとらえきれないコルビジェの作品の持つ魅力を、ミケランジェロを引っ張り出して考えてみようということであった、と述べているが*2、そのような立場は「今日、目に触れる建築には、ただ近代の意匠だけあって、何の表現もないようにおもいます」と近代建築を嫌悪した、1年上の先輩、立原の系譜をつぐものと見ることができる。まず立原道造の『方法論』との連関において先の「MICHELANGELO頌」を検討してゆこう。

*1:『現代建築』7月号、NSB、p.324~335、旧仮名使いはあらためた。

*2:『一本の鉛筆から』1985年、p.40

「神性」になりきれなかった「私性」

■日本浪漫派について
当時立原は原稿の依頼を通じて、雑誌『新日本』の中核メンバーであった日本浪漫派といわれる特定の指向を持った文学者グループとの親交を深めていった。

日本浪漫派の出現は昭和10年代の余りに象徴的な事件として語られている。その運動の実質的な代表者であった保田与重郎は、自ら日本浪漫派の核心を『没落への情熱』あるいは『イロニーとしての日本』としながら、彼ら独特の日本回帰のありようを語る *1
それは廣松によれば、あらかじめ「己の頽廃の形式をまづ予想した文学運動」*2であり、究極的な「自己」意識の上昇によるそれ自体の没落、そしてデスペレートな「故郷」奪還をも意図していた。また大久保典夫は、当時の保田にとって日本の近代は、既に頽廃する以外に更生法のないものとして認識されていたのであり、ここにおいて「イロニーとしての日本」という現実認識が生まれる、とまとめている*3
また「浪漫派」を自称するように、その運動が過剰なまでに理論以前の心情を重視すること、たとえばそれは「現状に対する絶望を介したシニシズム」であったり、「西欧文明に対する見極めの意識に反照された国粋的な美意識」*4となってあらわれるが、注目すべきは彼らが、唯一本居的『自然』に還元されえない外部性を獲得していたはずの戦前のマルクス主義運動の落し子であったということである。
保田が先の「近代の超克」座談会に出席を予定しながら、約束を果たさなかったことからも伺えるように、いまさら言擧げことあげすることの無意味を強調する*5保田の「論理」ヘの冷やかな眼差しは、自分自身が例えば「マルクス主義」という、近代化のレールに乗ってゆきついた「絶望」という地点から、無規定に幻想としての「内部」に身をまかせきろうとする、一定の日本的な回帰のありようをしめしている。
同じく廣松によれば橋川文三は『日本浪漫派批判序説』の中で、右翼・ファシスト的観念論に嫌悪を感じていた若い世代が、保田の国粋的神秘主義にはころりといかれた事実の解明の必要性をくりかえしているが*6、それは以上のような日本浪漫派の生成過程が、日本における近代の展開が、理想主義的な実践の下に挫折していったこと、あるいは「自己」を伴った観念的上昇の果ての無力感、絶望という運命を、そのまま映しだしているからであった。日本浪漫派はこのかぎり、体制側のイデオロギーとはまったく趣を異にするだろう。
このような日本回帰の定石を、当論風に言えば「外部としての自己」を、「自己」の地平から獲得された「神としての内部―自然」に還元、解体してゆくものということができるだろう。

萩原朔太郎
昭和11年12月、「日本浪曼派」同人参加
昭和12年12月、「いのち」-「日本への回帰」発表

…かつて「西洋の図」を心に描き、海の向こうに蜃気楼のユ-トピアを夢みて居た時、僕等の胸は希望に充ち、青春の熱気に充ち溢れて居た。だがその蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し回って、結局やはり祖国の日本より外にはない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、至るところに俗悪なビルディングを建立して居るのである。僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏しているといふほど、
疑ひの無い事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失しては居ないのである。
我は何物をも喪失せず
また一切を失い尽くせり

結局日本浪漫派はなにもなすことはなかった、というよりも、なにもなさないことに向かう道筋で直面しなければならない問題そのものを表現しえたとでもいうほかはない。それはイロニーとしての日本を承詔必謹走り抜けてみるほかないというデスペレートな居直り*7でしかないような、「幻想としての内部」に、意識的に服従してゆく過程で獲得されるほろびの美学だったのだ。
このとき「私性」は「神性」になりえなかったといってよい。「自己」というロマン派の根幹思想を、幻想としての「内部」に突入するために殺し、その上、浪漫派のデスペレートな心情からすれば共同体は依然「外部」であったからである。「超克」も果たせず、「神性」も獲得しえない、まさしく自殺のドキュメントを彼らは放送したのだといえる。

■浪漫派の『自然』と立原の「人工」
立原もまた、神になりえずに死を迎えた「私性」であった。しかしその様相、経路は浪漫派たちの位置とは多少異なっている。
詩人大岡信は、立原が、大岡の言葉で「人工」と表現される作為性から、神秘的な「内部」としての『自然』へ進み始めていた浪漫派に対して抱いていた違和感についてうまい要約をしている。

自然は一種の鏡である。…だがそこには決してナルシスムはなかった。むしろその逆、自意識の気遠い拡散と、自然への自己埋葬の欲望とがあった。…ナルシズムが自我に要求する自我自身への排他的関心はそこにはなかった。したがってまた、ひるがえって自然への即物的な凝視へ自己の視線を転回させるべき内的契機もそこにはなかった。そうした意味でのナルシスムないしはエゴチスムは、むしろ金子光晴中原中也立原道造などの中にこそ、うちひしがれた形ではあれ、あったと僕には考えられる*8

ここで大岡は立原の内的世界の象徴である「人工の白い花」が決して『自然』に還元されえるたぐいのものではなかったことをしめそうとしている。大岡は、保田が立原を評して「発露としての自然的なものを憧憬しつつ、実に態度としての人工的なものしかとりえない」というふうなかたちで理解したことについて、そこに立原の病的兆候としての、ありふれた「人工」観を超えた、ある種の積極的内容をその最後においてはらんでいた可能性を示唆している*9
立原はそのとき、本居的『自然』の周りをまわる「自己」の袋小路を、決して融解しえない弱さゆえの「私性」によって見抜いてしまったのかも知れない。

12月13日
のりこえのりこえして生はいつも壁のやうな崖に出てしまふ、ふりかへると白や紫の花が美しく溢れてゐるのだが、僕はすべてを投げ出して辛うじて少しづつ前へ進んでゐる》光を奪え!《…長崎に来て見たものは楠の木の葉に陽があたるのだけだった そして人の会話をよそからきいてゐると どこの言葉か 全然わからない 仏蘭西語のやうにもきこえる たうとうこの南方は僕に何ものも與えてくれなかった しかし 僕は 何かを自分のなかにきづき得た。*10

*1:「文明開化の論理の終焉について」昭和12年6月

*2:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.186

*3:大久保典夫「保田与重郎萩原朔太郎」、出典は前掲に同じ、p.187

*4:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.175

*5:大東亜戦争と日本文学」昭和18年、出典は前掲に同じ、p.173

*6:未来社、1960年、文中p.19

*7:前掲の『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』p.188

*8:保田与重郎ノート」1959年7月『超現実と抒情』に所收、p.146、147

*9:立原道造論」1957年4月、前掲書に所收、p.249~258

*10:前掲の『立原道造全集 第5巻 書翰』に所收