丹下への手紙

そのニヒリズムは、当時帝国大学に在籍していた後輩、丹下健三への手紙の中でその結論を出したように思える。昭和13年谷口吉郎はベルリンへ旅立っていた。

10月28日[金]
これは東京で書いています。かへつて来てとうに一週間ちかくなるのです。…自分の得たものが不換紙幣のやうなものではないかと疑ひはじめて、それ以来このやうすなのです。
…空漠としたところに出て来てしまつたやうです。時代の積極面に身を投げ出すことが、いつの間にかひびが入ったのか、阻まれてゐます。しかもその積極面での歴史の創造性以外に、僕をささへてゐるものがありません。遂にこのささえがあるから、僕の風景が空漠とふはふはなのだともいへます。*1

ここで立原は彼の心の支えであるはずの「歴史の創造性」が逆に、彼の「風景」を曖昧にしてしまっている、と吐露している。立原はそのジレンマを、「自己」自体を惨落させることで解決しようとする。

ゆうべの公報(註:武漢三鎮陥落)に無関心であり得ることには、僕は何よりも先に反発する。しかし、その反発の心情が用意されねばならないところに僕のおちこんだ陥穽があるやうなのです。これは感傷にすぎないでせう。「事実」はこんな感傷を無力にして、もっと巨きな力を持って、やがて、僕を引きさらって、引きあげてゆくでせう。が、この他力を自力でなしとげる自分自身の変革を、まだ、僕は可能だと思っています。(同上)

自らの余力をまだ肯定しながらも、アンヴィバレンツな心情は、彼に「方法論」で保持されていた構築の意志をも破棄させざるをえなかったようだ。

僕ら共同体といふものの力への、全身での身の任せきりがなくては、一歩の前身もならない…今日の歴史から自分をだけまもる孤高のヒューマニズムを信じるならば、それは必要もないことだけれど、歴史はこんなに弱く惨落したときの僕にさへ、今は一歩の前進を要求します。(同上)

時代の大きな観念は、「世界最終戦争」という自然法則としての必然へとむかってつきすすんでゆく。

ゆうべ武漢三鎮の陥落の公報があったとき、僕は新日本を編集する若い評論家たちと一しょにゐました。宮城まへまで行きました。堤灯を持つた大ぜいの人たちの万歳にまざって僕らも万歳を言ひました。しかし、どこか僕にはそれが不自然だったのです。僕の大陸の規模の情熱にふさはしくない不自然さが僕が消極面におしやるのを感じていました。(同上)

立原の共同体への「全身での身のまかせきり」と、「大陸の規模の情熱にはふさわしくない不自然さ」というアンヴィバレンツは、終始一貫している。ここではまずその前者の心情に対して考察をくわえてゆこう。いったい「新日本を編集する若い評論家たち」とは何者なのか?

*1:立原道造全集 第5巻 書翰』角川書店、1973年に所收、p.408、409

『方法論』をとおして

僕は、25歳で夭逝した詩人としての立原につきあう気がない。昭和12年、彼は帝大の建築学科を卒業するが、そのときに書かれた卒業論文である『方法論』*1から、立原の軌跡を追ってゆくことにしよう。彼は終章である「人間に根づけられたる建築の問題」において、その冒頭、建築は「壊れ易きもの」であるという。

…私たちはそのやうな壊れ易さを一般に言ふ物質の頽廃性とは同一には見なかった。建築が壊れ易いと言ふとき、私たちは、建築の理念が、果敢なさと虚無性の全範囲で把握されたこと、またその理念が藝術家の悟性を通じて個別性に移り行くとすれば、それが現実となり、同時に理念自体は無となること、そして無となるかかる瞬間に芸術の住居があること、言ひ換えれば「同一の」主観の「同一の建築」に対しての「同一の」経験は確実に繰りかへし得ず、従って建築體験なるものは極端に傷つき易い「瞬間的な」體験のうちにあることを、従ってそれらのことが「建築の壊れ易さ」を制約することを考へつづけたのである。『方法論』*2

そのようなモチーフの全てはいうまでもなく、「自己」概念の地平において獲得される。彼はここにおいて「自己」の行き着く先をすでに見据えていたようにも思える。つまり「自己」が現前するものとしてとらえられるならば、柄谷流にいえば「自己」の起源は隠ぺいされ、「主観vs客観」の二分法によって全ての現象が語られてしまう。僕たちは前章で「自己」が絶対化され、建築方法論の根幹にすえられることの陥穽を見てきたが、結局のところ、それは「自己」概念を弱体化させ、同一視という離脱回路によってなにか他者―たとえば『自然』―へのつながりを、枯渇する「自己」の内にみいだすことが「生」をかけての課題となる。だから、「全体人間」あるいは「普遍人間」というモチーフは、「主観vs客観」思考がもたらす「生」の相対的な位置低下を回避する最後の装置としてあるのかもしれない。

生の諸力は、一度び成立して生の妨害者となった芸術(建築を含んで、またすべての文化の形成物と呼ばれるものの一つとしてその中に含まれて―)に咬みつき、…古き形式を新しき形式で追ひやり、…結局は全文化様式(いふまでもなく、建築様式を含んで―)の絶えざる變易が行われる。かかるもの飽くなき生の無限の結實性の記号であり、恐らくはその結果であって生は死と成、生と死の間に動く。
…私たち人間の身体の文化価値は古今同一であり、物的生産物の文化価値も同一であり、また如何に内容がかはっても芸術の価値は同一である。*3

そのような地平、いわば表現することの実在的意味から立原は、モダニズムのテーゼの読み替えを要請する。

今や私たちは、私たちの現代の建築のイデアへの出發の日にふたたびこの言葉を理解しなほさねばならない。即、最後の大きな輪である人類という言葉の意味を。グロピウス自身解釈したのとさへちがった私たちの解釋をここに加えて出發せねばならない。…私たちが私たちを常に理解しつづけたように全體體験をもつ全體人間・普遍人間にまで溶解された「人間」なる意味を感得せねばならない。*4

彼が、当時の日本におけるモダニズム様式を嫌悪したことは、そこに疎外された「人間」像を見たからであった。なんとしてでも「わたくし」が表現することの意味をそこに付加しなければ、「生」自体が建築と全く無関係に、無意味に竣立してしまう、立原にとってみればそれは耐えられようもなかったのだ。
しかし「全体人間」というテーゼの内実の虚無性はいまだ払拭することはできない。
なぜなら「全体」という統一が、実は「何もいっていない」に等しいように、彼のロマン的な「合一」志向が反論理的な心情である限り、それ自体を汚濁させるような、「作為」が介在しなければ、方法論をたてることはできないから。立原の「生」への渇望は、彼が「手法」という「人工」の所作を堅持し続けないかぎり、実は「生」を無化する鏡でしかなかった。だから彼の前提としての建築は、「壊れ易きもの」だったのである。

*1:立原道造全集 第4巻 評論・ノート・翻訳』角川書店、1972年に所收、p.34~98を参照のこと。

*2:前掲に同じ、p.90、91

*3:前掲に同じ、p.92、93

*4:前掲に同じ、p.94

「自己」の上昇の果てに…立原道造

廣松渉は昭和初期から戦争突入における時期に、広く一般に共通のある前提があったという興味深い話を披露している。

…昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に意識されていた。当時の常識では戦争というものは謂わば自然法則的な必然であって、特定の一国が世界支配を達成するまでは永久に繰り返されるものと思い込まれていた。この前提的確信からすれば、そして、日本の敗退を認めたがらない心情があった以上は、恒久世界平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦に勝ち残ることが絶対的な要件として意識される。極く一部のマルクス主義的左翼等をのぞいて、"知識人"たると"大衆"たるとを問わず、それが"日本国民"の共通の了解事項であったといえよう。…ならびにまた、米国を盟主とする西洋と東亜の盟主たる日本との決戦は単なる力の対決ではなくして西洋的原理と東洋的原理との理念的対決として思念されていたこと、この事実を併せて明記しておかねばならない。*1

さしひいて考える必要があるかもしれないが、この究極的ともいえる前提が当時の「日本」思想の基調にあった、ことは建築家としての立原道造の存在の意味を検討するためにもたびたび想いおこす必要があるだろう。

*1:『〈近代の超克〉論昭和思想史への一断層』朝日出版者1980年、文中p.149、150

近代の超克論議についての簡単なデッサン

僕は当章をながれる裏テーマとして、昭和17年、雑誌『文学界』誌上で行われた「近代の超克」論争をひそかにおいていた。また「近代の超克」という言葉自体が、当時の知識人たちのあいだで流行語になりえたことからも、この座談会は時代的な現象であったといわねばならない*1。「『近代の超克』は、いわば、日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久理念の解釈を迫られる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが『近代の超克』論議であった」(竹内好)*2という見解からすれば、「近代の超克」とは、近代日本ナショナリズムに規定された思想問題の結末ともいえるだろう。
それは総体として大東亜戦争の正当化をうながしたものとして機能したことになっているが、注目すべきはその座談会に参加した各分野の多様な立場の思想家たちが、明治以来の「西洋」伝来による観念の変容に決意をもってそののりこえを図ろうとした、という意味においてはひろく「日本」の再考をうながす契機となったことである。とすれば、最初期より「外部―内部」的認識の前提の下に展開していった近代「日本国」建築の、一定の段階における結論としても、「近代の超克」という問題は読解されうるかもしれない。

*1:竹内好による。論文「近代の超克」、『近代の超克』富山房百科文庫、1979年に所收 文中、p.274

*2:前掲に同じ、文中p.338

『自然』信仰…つくることへの疑い

生きている「私」に関わらず、私のつくりだして来たものは時代の流れと共に生きてゆくかも知れない。過去の偉大な時代に完成されたいろいろな造形物を通観すると、ある特定した美の性格が発見される、と谷口はいう。さらにいかなる作家も、彼自身が無意識であっても、その時代には無意識の刻印が押されるという。
また、そのためにたくましい制作意欲が必要だ、という。それは将来に誕生すべき様式の美に憧れる「意匠力」であるという。この美しい造形に憧れる力が、様式の発生記にあっては、素朴な創作的活動となって「清らかなる意匠」の萌芽となるという。
しかし谷口は本当にそう思っていたのだろうか。「将来への創作意欲」が「故郷喪失」のモチーフの裏返しであることは明らかだろう。そして僕たちが、いま、ここで、つくるということの意味はいまだに明らかにされてはいないのだ。いや答えは用意されている、ここにないものに向けて首を垂れよ、と。
小能林宏城は、名作とされている谷口の「藤村記念堂」(昭和22年)について、「あの建物から醸成される、あの暗さの正体はいったいなになのだろうか」と小能林内部の、ある近代日本の精神譜―彼はそれを「原罪譜」とまでいう―に結び付けて自問する。

彼らは、西洋という「他人」によって与えられ変容された観念と、この抜きがたい感受性(註:旧き日本への郷愁のこと)とのジレンマの谷間で苦悩してきたのだ。…そしてこの苦悩は、ある時は暗い淀みに渦巻いたかも知れない。これは二重の苦悩であった。あの大正から昭和初期にかけてのインテリゲンチアの内部に淀んだ絶望感・挫折感・自我意識・異和感と、明治の工匠たちのあとを襲った建築家たちの苦悩、それらが重なりあったのだ。藤村のあの陰湿な暗さ、荷風の倦怠と絶望、竜之介の荒涼たるシニシズム、それらはそのまま谷口につながりはしないか。*1

そしてまた、それは1965年8月の小能林自身にもつながる系譜であり、もうそろそろ僕たちは、そのつながりを断ち切らねばならない。

昭和13年国家総動員法が公布。
8月16日、ヒトラー=ユーゲント来日、
10月27日には日本軍、武漢三鎮を占領、
12月23日、スペイン・フランコ軍カタロニア進撃開始、
…同年谷口は日本大使館建設工事のため、外務省嘱託としてドイツ・ベルリンへ出張する。
当時の彼の日本大使館建設の苦労記は、日本庭園のための庭石さがしとして紹介されている。

ここに来て、「石」のために、こんなに苦労するとは思わなかった。「切り石」はあっても、天然の肌をもった「野石」は、石ころ一つも見あたらなかった。「凍てつく日―ベルリンの庭石」『雪明り日記』昭和22年*2

この日記で谷口は、「異国」の地における石さがしを通じて、どんどん『自然』へ寄り添いはじめる。ある時、コンクリートで庭石をつくってみてはどうかとそそのかした人に対し、彼はこうなげかける。

しかし、庭というものはそんなものだろうか。もちろん、日本の庭は、人間が『自然』を模したものであることを特色とするが、そんな自然の剥製であろうか。そんな模型細工のようなものだろうか。庭は、そんな死んだ物ではない。ただの模造品ではない。生き物である。…時とともに生き抜こうとする。星霜に耐えんとする。苔のむすまで、千代に八千代に生きようとする。(前掲に同じ)*3

ここにおいて彼に、本居がまたそうしたように、「ありのままなる自然」をそのままうけいれようとする不問の領域がかたちづくられつつあることに気づくだろう。
それは谷口が「意匠心」を生活美に結びつけながら、しかし本然の生活は現在では見失われているとする、「故郷喪失」のイメージと通底するものだろう。そのような「ここにはないもの」への追慕は、ひいてはここでわたくしが生きる―表現する―こと自体を相対的に卑下しやすい。谷口はヨーロッパ人の石の取り扱いについて、こう説明する。

…(註;ヨーロッパの)造形力は自然をそのままの姿でなく、人間の力によって加工しようとするもので、いわば人工美をつくりだそうとするものだった。このようにヨーロッパの造形は、自然美よりも人工美を強く尊ぶ。…それは自然の流れに逆らって、天に向かって吹きあがろうとするものである。…
そんなことを考えながら、私は私自身の肉体の中にも、故国の風土にはぐくまれた美意識が血潮となって流れていることを感じた。…このような自然の石肌に心をよする美意識は、珠光、紹鴎、利休によって打ちたてられた「数奇」の美学である。これこそ茶道の「さび」の造形であり、利休こそ、この日本の「石ころ」にこもる美を、世界的な高さにまで完成した偉大な作家といわねばならぬ。(前掲に同じ)*4

ここで谷口は、よく見かける「日本」美学論共通のテーゼに陥っている。
「自然―数奇―わび、さび」の系譜へとつながる、いわば「日本的無の世界」に対して、しかし僕たちはそのような美学の大体が、ナショナリズム発生の基本である「外部―内部」的認識から不可避的にせりだしてきたものであろうことにもはや鋭敏になってしまっている。例えば超克論者でもあった哲学者、高坂正顯は彼の思想の前提をこう記している。

東洋の原理はまさに無であるのである。西洋的実在は、自然にせよ神にせよ人間にせよ、要するに有の原理である。ここに無を原理とする東洋の特殊な意義がある筈である。「現代の精神史的意義」*5

しかし「無」という言葉が「有」に対する対置として初めて表れてくることも、ここで同時に露呈されている。その「無」が、判断中止の場として「論理」に対置されたときにおこる、観念的あるいは制度的な専制について関して本稿はこまかく述べてきたが、「無としての内部」を前提として、例えば「美学といった論理」を構築するとき、それは悲劇である。つくられたものとは、「作為」に外ならない。だから「つくられたもの」が「無(作為)」である限り、それはここにはない、のである。その思想は生きていることそのものをも肯定しえないだろう。「花」はここにはないからである。谷口が後年、墓作りを通じて自分の「美学」をこらしたことと、なにやら偶然の一致とは思えない関係をそこにかんじてしまうのだ。

しかし、私自身に、そんな竜安寺の石庭を、ここで試みてみる資格が果してあるだろうか。その美しさにあこがるる切なる私の心は、その「写し」をここでつくる許しをえたとしても、まだ骨身にしみるような庭の修行もしていない私の腕は、「もぐり」の作家のように、あさはかなものにしてしまう心配があった。
或いは、日本から石が一つもこなかったら、いっそのこと、石の無い庭にしてしまおうか。「凍てつく日―ベルリンの庭石」*6

*1:「工匠の末裔 谷口吉郎を通じて」『建築について』相模書房、昭和47年に所收、p.86

*2:前掲の『意匠日記』に所收の版を用いた、p.137

*3:前掲に同じ、p.145

*4:p.156

*5:『歴史哲学と政治哲学』弘文堂教養文庫昭和14年に所收。

*6:前掲の『意匠日記』に所收の版を用いた、p.158

清らかな意匠…「あるがままの美学」の論理構造

谷口にいわせれば、「意匠心」は生活美につきるという。「意匠心」とは美しき造形を求める生活の「道」である。さかのぼれば、日本人の生活には、何から何まで、衣食住はもとより、政治も宗教も、すべてが詩と美しい形の創作であった時代があった、庶民生活の中から生じた生活美は、そのような多くの人々の造形力によって育てられた、という。
しかしそれは今、ここにはないのだ。人世の縮図が集結している、立て看板やポスターはいかにも醜い、という。遠い昔の「日本」のうるわしい「故郷」、あそこでは名もない人の心が、世界人的な感情を訴えていた、無名の工人が描く絵、あるいは彫る彫刻が、いみじくもその時代の「ようしき」をつくりあげていたという。

…その時代こそ、日本の美しき「故郷」であり、その美しさを思う心こそ、われらの郷愁である。そんな過去の偉大な造形力を思い起すと、現代のわれわれの胸には切々と、偉大な美に対する追慕の情が湧きあがってくる。『清らかなる意匠』昭和23年*1

そんな「故郷喪失」の想いを彼は「清らかなる意匠」という言葉に託した。生活にある「あるがまま」の美、しかしそれは今見失われている。

「あるがまま」なるものは遠い昔にあった、そう本居宣長も言った。

歌は政治を助けるものでもなく、身を修める手段でもない。ただ心に想うことをよむ、という以外に言いようがなく、そこに歌本来の姿がある。
…もちろん、いまでも、こころのままに歌によんで、つもる思いを晴らすのはすこしもまちがいではない。しかし歌詠みにとっていちばんたいせつなことは、すぐれた歌、うつくしい歌をよむことであり、そこで秀逸な歌をつくることが、歌詠みの第一義の道である。こころも、ことばも、すべてむかしのそれにかえり、むかしのひとになりきって、かってかれらがつくりあげた風雅の世界に参上しようと努力するのも、そのためである。
…なぜなら、上代においては、こころも、ことばも、きたなくなっていったからである。…
『排蘆小船』

「あるがまま」でよいものなら、何を言擧げことあげする必要があるだろう。そんな気持ちを心に抱いて宣長が歌学という「論理」をたてたとき、あらわれた「手法=作為」は「ありのままなるものはここにはない」という命題であった。
以上のような「故郷喪失―現世否定」は、国学的『自然』からつらなる(一応国学から始まったとする、でももっと昔からかもしれない…)近代における日本的知識人の美学の根幹だといってかまわないだろう。その「理論」は谷口をどこに導いたのだろうか?

それは少しも遠い時代ではない。なぜなら僕は殆どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういう時代に、世阿彌が美というものをどういう風に考へたかを思ひ、其処になんの疑はしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を盡して後、花の失せぬところを知るべし」美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。小林秀雄『當麻』昭和17年4月

*1:『意匠日記』読売新聞社、昭和二九年に所收の版を用いた、p.83

分離派批判

谷口の建築論におけるデビューは昭和3(1928)年の分離派批判から始まる。分離派建築会はこの年の第7回展覧会をもってその活動を停止するが、谷口は激烈な調子でその退廃ぶりを批判する。

…建築硬化症の産物たる退嬰的な耽美主義の蠢動だ。建築を叫ぶもそれは建築を自己の逃避所とし、其の中に立て籠り、其小世界に自我を誇大に主張せんとする井蛙的な建築美術至上主義の傀儡だ…「分離派批判」『建築新潮』昭和3年*1

谷口は「自己」の仮象ぶり、その弱体化をごく正当に批判する。この時点で谷口は「自己」の陥穽におちいってはいないし、逆にシラけた視線を投げかけていた。では西欧のモダニズムについてはどのような見解を示したのか、2年後の昭和5年におけるコルビジェ批判を見てみよう。

…更に彼(註:コルビジェのこと)によって建築の根本が聞かされる。「建築の本質は錐体、立方体、円筒、円錐等に依存する以上、斯る形態が持つ創造的、指示的要素は純粋幾何学に立脚している。」これによってもわかる如く、幾何学に対する彼の見解は殆ど、奉信と言っていい程に、その絶対性を認めている。…
即ちコルビジェは立体主義者と同じく思惟の君主的圧制によって、現実を無理にも統一化せんとするものである。…
これは明かに思弁的袋小路に這入り込んだものである。思弁哲学の推理的な遊技に過ぎない。彼の建築観は一面的な理性の跳梁によれる私生児だと言っていい。「ル・コルビジェ検討」*2

僕たちはここに「日本」精神の優れた批判能力を見る。つまり「作為」をみぬく能力である。コルビジェについてさらに言う。

…それは湾曲壁の乱用だ。曲線の玩弄とさへ言はれる。実用性の去勢されたプランの図案に過ぎない。
…実用を無視してまでも形式的潔癖を保たうとする教養主義である。
…建築家の実際的職務の第一歩たるべき、同時に最も重要なるべきプラン計画は、彼にとってもはや線のロマンティシズムに過ぎない。(前掲に同じ)

そして彼が、批判の根拠を「当然」のようにさらけ出すとき、僕は近代「日本国」建築発祥以来の、国学ゆずりの「実用」観の強度を感じずにはおかない。後世の評価では谷口はモダニストと考えられているが、ここでの言説は「モダニスト―外国かぶれ」とは一線を画しているようにきこえる。では「実用」とは谷口の場合何なのか?
「然し、我々は彼の建築の2面性を通して、社会の二つの相貌を見抜く事が出来る」と彼はいう。一つは建築を毒している「消費万能の生活様相」であるが、もう一つは「我々がその建築に満身的な友情に満ちた愛撫を禁じ得ない」彼の「生産的生活様相」である。コルビジェのかっての住居は迅速で、容易で、廉価で、共存生活の一細胞として存立するもので、山の手風の住居意識が排撃されていた、と谷口は賞賛する。彼はコルビジェを擁護しながら、コルビジェの計画した住区はいまだに住む人なき無人境にさらされていると、理解なき「小市民」や「官僚」、「インテリゲンチャ」を容赦なく「鬼め!」と痛罵する。
若きマルキストとして、このころの谷口を見ることはできる。しかしそれ以上に佐野に代表される建築生産体制を構築した本居的モダニズムとの共通点を見いだすことが可能である。と、同時にまたコルビジェの「様式」を「作為」として見なした谷口にとって、自らの表現にいかに対処してゆこうとしたのかも興味ぶかい。それは最終的にはマルキシズム建築運動が本居的モダニズムに抵触していったように、彼もまた、「実用=自然」概念の流れにつらなっていったように思える。

*1:KKH、9編建築論4章日本の建築運動から、データとともに引用、p.1595

*2:『思想』昭和5年12月号、NSB、p.207~217、旧仮名使いはあらためた。