川添登とメタボリズム

メタボリズムは60年代を象徴する建築運動として知られている。しかしその史的定義は未だ確実にはなされていない。建築史家布野修司*1によれば、メタボリズムは、評論家川添登が中心となり1960年、東京において開催された「世界デザイン会議」を契機として組織されたプレゼンテーション・グループである。

メタボリズム』とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。
機関誌『メタボリズム』第1号

その中心メンバーには川添の他、建築家菊竹清訓、槙文彦、黒川紀章大高正人、グラフィックデザイナーの粟津潔等がいた。メタボリズム=新陳代謝の名の通り、彼らの活動は流動的であり、各自の方法論も多様である。一つの視点だけでメタボリズム・グループを総括することは、その可能性をもついばみとってしまうだろう。僕はここで特に川添の言説だけに焦点を絞って、その一側面をスケッチしてみることにしたい。

思えば日本における「1960年」の意味は、様々な次元で転回点的な意味を持っていそうである。しかしここでの興味は、日本の「民衆」運動に大きな挫折をもたらした「60年安保闘争」の、各表現分野における激しいまでの影響に集中する。大島渚はウェディング・テーマと偽って、安保闘争の挫折を描いた『日本の夜と霧』を公開、後4日で上映打ち切りにあったし、吉本隆明はその総括である「擬性の終焉」を書いて「民衆」マルクス主義者たちに訣別した*2
5月19日、自民党強行採決で、新安保条約通過。翌日、全学連主流派、首相官邸に乱入。
5月26日、安保阻止国民会議、第16次統一行動、17万人のデモ隊が国会を包囲。
6月08日、最高裁判所衆議院の解散の審査は司法の権限外と判決。
6月15日、安保改訂阻止第2次実力行使、580万人参加。
同日、ラジオ関東アナウンサー、警官隊に暴行されながらデモを報道。
同日、右翼、デモ隊に殴り込み、60人負傷。
同日、全学連主流派、国会突入をはかり警官隊と衝突、東大生樺美智子死亡。学生約4000人、国会構内で抗議集会、警官隊、暴行のすえ未明までに182人逮捕、負傷者1000人以上。
6月23日、新安保条約批准書交換、発行、岸首相退陣の意志発表。
思想家吉本隆明は、6月15日のデモに於て、人々の表現しえぬほどのたかまりの中で国会に突入を図った直前、あるマルクス主義の一派がゆくてを阻んだことに、その「民衆」像のからくりの脆さを痛感した。そしてその吉本の心情だけは川添にも共有されていた。

同年4月、ソニーは世界初のトランジスタ・テレビを発表。

■『建築の滅亡』にみられる危機意識

人類文明はいま大きく回転しようとしている。《小鳥のように自由》な労働者の支配する社会に、《建築》がありえるだろうか。少なくとも《永遠性》を特長としたような、これまでの建築が必要であろうか。
…将来の住宅は、部品化され、《都市構造体》にとりつけられるが、工業生産化された部品は、規格体系とジョイントによって、無限な組合せが可能になるであろう。人々は、自らの趣向に応じて、形と色と材質を適当に選び、必要な規模の自由な大きさに組み立てることができるようになる。家族の発展と変化、あるいは気候や気分の移り変わりに際して、取り外しては、また組み立てるに違いない。                    『建築の滅亡』1960年

歴史的といえる川添の著『建築の滅亡』*3の中で、そのトーンの基調をなすものが、「建築=シンボルの滅亡」以前に「民衆像の滅亡」であることは、ぞんがい認識されていない。その以前、熱烈に「民衆建築家」の理想像を追いもとめていた彼は、ここで6月15日のデモを引き合いにだして、その追求の挫折を味わっている。

学生たちは、門を壊し、塀を倒して、その構内(註:国会議事堂内)で抗議集会を開くこと。それがテレビの電波に乗り、映画館のニュースで上映されたとき、全国民は、議会は国民のものだったということに気づくであろう事を信じていたのであろう。
しかしそうなることは、すなわち議会が、国民総意のシンボルになること、これは岸政府にとっては許せなかった。彼らにとって、そのシンボルは、あくまでも塀で囲まれた、国民と縁の切れた姿をした議事堂でなければならなかった。そこで警棒はうなりを生じて、若き議会主義者たちの頭上に振り下されたのである。…国会議事堂は、大日本帝国のシンボルであり、民主主義の墓場であった。

例えば布野はその著書*4の中で、『建築の滅亡』に対して、それなりの説得力を持ったものとして、しかし次のように曖昧な評価をくだしている。

彼は、70年代の半ばに至って過去を顧みながら、自らの50年代の伝統論もまた建築が解体しつつあるという危機感の現れとして、それに対するはかない抵抗として述壊するのだが、確かに彼の感性は、繁栄の60年代の出発時において、とりわけ鋭く際立っていたのである。メタボリズムは、その透徹した感性が建築の解体を先取りすることにおいて孕み落されたのであった。すなわち、メタボリズムは、〈近代建築〉の解体のみならず、《建築》そのものの解体をラディカルに(?)志向することによって成立したといってもいいのである。

しかしもはや僕たちは、以上のような解体志向が本居的なニヒリズムにうらうちされたものであることを知っているし、彼のメタボリズム追求の底流に流れる危機、挫折意識を批評しなければ、メタボリズムの営為はくずれてしまうだろう。僕は川添の解体志向に、ちょうど戦前のマルクス主義運動の挫折の落し子である、日本浪漫派と同一の匂いを感じとってしまう。もしそのカンが妥当なら、彼の規定したメタボリズムになんらかの「回帰」意識があると仮定してみるとおもしろい。吉本は「擬性の終焉」を書いた後、「日本」から解き放たれんがための作業を自らに課した。一方で川添の場合、アイロニカルではあるが、「日本」的現状への全肯定という「日本回帰」の常套パターンをたどった形跡が散逸しているのである。

■川添による「民衆建築家」のイメージ
川添は、「60年」以前、雑誌『新建築』の編集部に在籍しながら評論活動を続けていた。そのころの彼の評論にあらわれた特徴は、その論理を組み立てる要としてのマルクス主義-民衆への信奉-民族主義という回路である。
一般に川添の編集者としての業績とされる「伝統論争」において、彼自身の建築に対する評価は「いかに日本の民族を表現するものとして妥当であるか」の一点に絞られている。
特に日本浪漫派に対しての心情的な面でのシンパシーは、丹下の大東亜記念造営計画案のモニュメンタリティーを通して、「民族の造形」の必要性を強く主張するにいたる*5。川添にとって「民族」は「神」であり、「民族」を批評停止の領域におしあげ、その結果「民族」にまつわる安易な論理展開を許容している。そのような「民族」指向は、「日本」的マルクス主義における「民衆」像と通底し、川添において、マルクス主義ナショナリズムの統一行動は、心情的に最高の高ぶりを見せている。川添は機能主義を近代的フォルムを日本の現実に押しつけようとした*6と断罪し、進むべき建築家像を、当時設計における共同作業や現実的な生産様式からの建築構想の方法を検討していたミド同人*7に見いだし次のように言う。

土の中から養分を吸い上げて生え出る樹木のように、日本の生産方式や労働形態、国土に産する素材、民衆の生活感情の内部から出発し、しかもそれらの正しい発展を促進させる方向を指し示すものとして、現実の中から逞しく成長する建築を求めたのである。・・・彼らの意味した〈技術〉とは、全国民的な規模の広がりに根を張り、そこに潜在された種々のエネルギーを発掘するものであり、一方では、その上に生い立つ建築の造型を探るものであり、従って民族の生命力の延長と考えられるのである。「国民建築の創造―転換期の導火線」*8

このような「民衆」に拘泥しようとする姿勢は、ちょうど当時の「民衆論争」における西山のような―「民衆」に呼びかけてみても「民衆が建築家の努力に対してほとんど反応しない」*9―ジレンマを生みだしてしまう。

■挫折のすえに
60年以降、つまり『建築の滅亡』で著された「挫折」以降、彼の評論の激烈さはあきらかにトーン・ダウンしている。1962年1月の『思想』誌上で、与えられた「国民文化の形成」*10というテーマに対し、川添は次のように述べる。

…私は、国民文化の問題を考える出発点は、自分自身の感情を偽ることなく、むしろそれを深く掘り下げてみることから始めるべきだと思うのである。*11

なぜなら、川添たちの建築の仲間が、東京の現状を批判し、理想的な都市像を描いてみせるのに、たいていの人たちは納得してくれないばかりか、ひどいときはつるし上げをくらったから、と川添は言う。

人びとは、東京が近代都市の形態をなしていないことを百も承知している。そして朝夕の通勤ラッシュや、自動車の混乱に、ほんとうに困らされ、つらい思いをしている。しかし、東京に住む人々は、東京の悪口を言いながらも、心の奥底ではその欠点を含めてそれが好きなのだ。…そして考えてみれば、私自身も全く同じような感情を持っていることに気づかざるをえなかった。(前掲に同じ)*12

一見当然そうな「論理」だが、このような「なにも言ってない」反論理が、論理構築の基底をなすような倒錯した方法論の陥穽を僕たちはいままで、何度も目のあたりにしてきたはずである。またより注目したいのは、メタボリズム華やかなりしころ、川添がこのような論理放棄ともとれる発言をしていることだ。もちろん川添がメタボリズムに反旗を翻したとするなら事態はより容易だが、もしその「反論理」がメタボリズムの思想的根幹とふかく連動しているならば、そこに倒錯を見ないわけにはいかないだろう。メタボリズムが方法論上の運動である以上、そこに介在する論理はいわばいのちであるにも関わらず、なお「論理」自体を相対化するような発言が許容される、とすれば、メタボリズムの論理的特殊性ははからずも「日本」的なのではなかったか。

両親はプライバシーのないところに本当の個性が生まれないことを知っており、子ども部屋の造れない中で、たとえ部屋が狭くなろうとも、勉強机を置いて、その幼い個性を尊重しようとする。従ってそれは個性のシンボルであり、抵抗のシルシであるから、畳の部屋に不調和であることが当然であり、それゆえに存在価値を持つ。(前掲に同じ)*13

以上のような「論理」を僕たちは認めることはできない。それは近代日本における近代性への絶望の果てに、その照り返しとして無批判に論理を解体しようとする思考メカニズムであり、いわゆる日本回帰の典型である。

私たちは現在の住生活が混乱し、無秩序であることに、むしろ将来への希望を見いだす。都市の混乱も同じであり、その喧騒の中に、国民のたくましいエネルギーを感じなければならない。(前掲に同じ)*14

『自然』概念との連関によって獲得されたこのような「無秩序の美学」、その現在にまで近代「日本国」建築の局所的な主流を占めている美学に対し、僕たちは自らをさえ振り返ってみなければならない。そして「無秩序の美学」が、『自然』としての現実に対処しようとするときに表れた、「新陳代謝し、無限に成長してゆく都市に対処してゆこうとする」建築方法論の必然性を鼓舞するとき、ニヒリズムメタボリズム思想の根幹に抵触したはずである。

メタボリズム

…都市はもはや堅固とした形態を持っていないのである。この点に関する限り、磯崎新氏が現代都市を幻影の都市と呼んでいるのは正しい。たとえ高速道路や高層建築が、その巨大な造形を誇ろうとも、それらは巨視的にみれば、一瞬のうちに消え去るテレビの映像のように、うたかたの幻影に過ぎぬともいえるのである。
私たちはこうした観点を数年前にもち、たえまない新陳代謝(メタボリズム)こそ現代都市のあり方であると考え、都市の全体像を否定し、これからの都市計画にマスター・プランはありえぬとし、必要なのはマスター・プログラムであると主張してきた。そして1960年の世界デザイン会議東京大会を前にして結成したのが、グループ・メタボリズムであった。
しかし私達は磯崎氏のように、「都市を幻影とし、建築家にとって、最小限度に必要なのは彼の内部に胚胎する〈観念〉」とはしない。現代の都市は、あくまでも物質的な存在であり、その巨大な物質的なメカニズムに人間生活を適応させ、また、進んで人間生活にその物質的なメカニズムを適応させようと考えるのが、メタボリズムの方法論である。「文明の変身」*15

*1:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房

*2:吉本隆明著作集』13政治思想評論集、勁草書房、昭和44年、p.47

*3:現代思潮社、1960年

*4:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房、p.32

*5:川添登『現代建築を創るもの』昭和33年、彰国社に所収された「民族主義の革命―原爆時代の抵抗」p.63~84を参照のこと。この本は「60年安保」以前の彼の言説を中心に加筆、編纂されている。以後GTと略記する。

*6:GT、p.164

*7:《ミド同人労働組合前川国男建築設計事務所と横山不学構造事務所らが中心となって結成された建築計画組織。

*8:GT、p.165

*9:西山夘三「建築を国民に結びつけよう」。『建築文化』119号、昭和31年8月、特集「建築設計家として民衆をどう把握するか」に所収。

*10:論文掲載雑誌名および発表時期は、彼の「60年安保」以降の代表的な言説をおさめた『建築と伝統』昭和46年、彰国社に添付されたデータによっている(p.260および本文)。以後KDと略記する。

*11:KD、p.211

*12:KD、p.211、212

*13:KD、p.219

*14:KD、p.219

*15:『展望』1962年7月号、川添登『現代のデザイン』1966年、三一書房に所収,p.223、224

ノリのような建築

1960年のある講演会で丹下は次のように言っている。

…別の角度の問題として、次のような点をまた考慮してみたいと思います。私達の時代のマスコミュニケーションやマスプロダクションが、私たちの生活にもたらしてきている影響でありまして、私たち現代の人間は物資とともにますます普遍的なものに、また匿名的なものになりつつあります。例えば1950年の電気掃除機と1960年の電気掃除機は、非常にちがっておりますけれども、1960年の電気掃除機と同じ年のタイプライターは非常に似ております。またこれが病院であるのか、あるいは教会であるのかわからないような建築が非常にたくさん出てまいりました。…しかし、自分自身の固有性を示そうとする欲求は、人間にとって本質的なものであります。「技術と人間」1960年*1

「匿名性の建築」、「空気のように完結しない」、「ノリのような建築」を前に、その対応に苦慮している丹下の姿を想像してほしい。丹下はその匿名性に対処しのりこえてゆくための、自己変革宣言とでもいうべき決意めいた言葉をそこで述べている。

…建築家、あるいはデザイナーという人たちは、テクノロジーとヒューマニティのあいだに依存している唯一の人間であります。…建築家、あるいはデザイナーはますます創造的になっていかなければならないということであります。こういうふうに技術が急速に進歩し、文明形態を大きく変貌させつつある現在、20世紀前半に考えられたデザインのいろいろな考え方や建築のイメージが、現在ますます大きくなりつつある矛盾を解決するにあたって、不十分であり、役にたたなくなってきておりますし、また不適当になってきております。そうして私は現在こそ、建築、あるいはデザインがその内部から変革されていかなければならない時期にきているというふうに考えております。(前掲に同じ)*2

丹下は同講演会で、現代都市の特質が「モビリティ=流動性」にあるといい、その問題を「時間」という軸の中で考えてゆくと、二つの傾向がある、という。
一つは、商業主義の下に、毎年そのライフ・サイクルを急速に短くしつつある、「生活用品」「自動車」というような「私達の生活そのもの」、あるいはそれを容れるための「住居」であり、「住居」でさえ、本当の役に立つのは5年あるいは10年にすぎない(!)とする。そしてもう一つは、「ダム」「ハイウェイ」などの、資本の蓄積にもとづくオペレーション・スケールでつくられた、「非常に大きな構造体」であり、このような「構造」は、長期のサイクルに耐え、時代のシステムを決定しつつある、という。

この二つの傾向は、…ちょうど生命、あるいは有機体が、変わってゆくものと変わらないものとによって構成されてゆくように、あるいは常に細胞が新陳代謝しながら、その全体は一つの安定した形をもっているように、私達の都市について考えてみましても、流行現象のような変わってゆく要素と、時代を性格づけるような変わらない要素との矛盾の統一というふうなことについて、私達は考慮していかなければならない時代になってきたと思っております。(前掲に同じ)*3

いささかハギレのわるい説明だが、一見して、この時期に特徴的な思考方法の基調にあるものが、「変わるもの」と「変わらないもの」の二元論だとわかる。
「住宅」をも「変わるもの」として流行現象と同一視する姿勢は、先の「弥生vs縄文」という近代的誤謬を含んだカテゴライズによって獲得された概念ともとれる。そして同時に、「外部―都市」的要素を「変わらないもの」と認識する二分法によって、自らがよって立つところであったはずの「内部―個別性としての建築」が、自動的に「変わるもの」として対象化されてしまったことを見のがすべきではないだろう。つまりコア・システムにおいてその萌芽がみられた、「統一」から「並存」への構想力の後退が、さらに進んで「個別性としての建築」に対する「外部―都市」を発見させた、ということができるから。そしてその「外部」に対応しようとしたとき、表れた方法についてさらに検証せねばならないだろう。

■「自然―進化」観の流入…「構想力」の相対化
丹下は現代に対する現実認識として、第一に「ダイナミックな流動性」を挙げたうえ、建築家が行うべき方向づけを次のように表現する。

ではどういう方向に成長してゆくでしょうか。第二の側面として、次のような文明史的状況を私は心に描いております。それは、社会組織と、国土や都市の空間組織は、より高度に有機体化してゆきつつある、ということであります。…さらに植物・動物・人類といった自然進化の過程にたとえるならば、現代は、有機体内部に神経系統を整え、頭脳を生みだしつつある段階、つまり人類誕生の段階にたとえてみることができます。「日本列島の将来像」1966年*4

オオブロシキは適切な広さにたたみ直すべきである。注目したいのは、丹下が現代の認識を「自然進化」と表現していることである。伊東忠太の「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」*5に表れた、美術派の惨落の様相を思いだしてほしい。あのとき伊東は建築表現の「作為性」から脱却するために援用した「自然―ありのまま」概念によって、みずから表現しえる世界への探訪を閉ざしてしまった。そのとき「様式」は彼の手を離れ、『自然』という判断中止の領域に封じ込められてしまったのである。おそらく丹下のいう「自然進化」の持つ「言葉」としてのはたらきも、忠太同様であったはずである。
例えば、丹下が日本の現状を「あるいは日本開闢神話の創世の状態にも比べられるほどの、大きな流動状態」*6と形容するとき、伊東が先の論で建築領域における現実認識を「暗黒時代」と称したことと、同一の認識放棄の意味あいがある。つまり当時の丹下のメイン・テーマでもあった「開かれた都市」というモチーフには、積極的な意味あい以外のものが、含まれていたように感じられるのだ。
それは丹下においては、「世界を表現されたものとして見る」意味を有していた「機能主義」を相対的に位置低下させた。開かれた社会組織である大都市地域に対する秩序づけの探求、つまり60年代より丹下が提唱し始める「構造主義」というテーマに関して、丹下は次のようにその作業を位置づける。

…この探求は既に、機能主義の限界をこえた領域のことがらである。ここでは一つの機能単位と他の機能単位との間にはなんら機能関係が存在してないのである。…そこにあるのは動態的な構造的関係なのである。こうした構造関係を明らかにし、さらにその新しい構造関連をつくりだしてゆくことこそ、私達の主要な課題となってきたのである。「現代の一般的状況」1961年*7

丹下は機能主義のテーゼである、特定の「目的―手段」についての関数関係、いってみれば彼の立脚する「個別性」を保証する基本的認識を、限界として感じはじめている。それは「外部―都市」を自らの内にひきこめられなかったときに表れた。そのとき「都市」もまた、『自然』的な貌をもってたち現れてきたのではなかったか。
例えばこの時期、丹下は、ルイ・カーンフィラデルフィア中心地改造計画における、自動車交通と建築の結び目として規定された、「港」と呼ばれるコミュニケーション・ネットワークを評価しつつ、それを「人工自然」と形容している*8。しかし以前の、「天才」を基底におき、構想の端緒をあくまでそれ以外に求めなかった彼の方法論に、「自然」という言葉は本来的に不要であったはずだ。以上のような状況を、丹下における本居的な『自然』概念の導入期とまとめてしまってかまわないのだろうか?
もう1回くりかえそう。論の推移はあくまで可視的である。1960年当時、以前の「内部―自己―個別性」のサイクルの中で完結していた彼だけの「日本」に、不断なく乱入してくるノイズ―機能主義の限界を越えた領域―の存在に彼は対処しきれなくなっていた。「天才」の「構想力」だけでは世界はもはや語りつくせなくなってきたのである。そのとき彼は、「天才にとっての外部」を「都市」と命名した。そこに対処しようとしたときに、しかしなお彼が「天才」を創作方法論の根底に据えようとするかぎり、「外部としての都市」は「制御できない何物か」として認識せざるをえない。つまり「都市」は『ありのまま―自然』的な領域として定位させざるをえないのである。丹下はその「天才」の外部をとらえ続けようとした。しかし「天才」が彼の中にいすわり続けるかぎり、「都市」は本来的に彼に対立してしまう。そして60年代以降に繁出する彼らの合い言葉『新陳代謝有機体―自然進化』でさえ、以上のような強固な二元論の幻想に産み落されたものなのではなかったか。
ただ一方で「もののあわれ」に対する徹底的な批判を繰り広げてきた丹下にとって、『自然としての都市』には屈服しようのない心情があったはずである。彼は当時注目され始めた「メタボリズム(新陳代謝)・グループ」という建築運動に対し、次のような忠告ともとれる見解を述べている。

しかし都市には、その間断ない持続的な、メタボリズムの過程をたどりながら大きなメタモルフォーゼの行われる時期、あるいは局所があるといえよう。「機能主義から構造主義へ」1961年*9

ここで丹下は、樹木の成長システムについて述べたアルドという学者の説を引用しながら、第一に、樹木が「年々その葉を更新させながら成長してゆく過程」―持続的成長―と、第二に、樹木に実った種が「新しい土壌から樹木に成長してゆく過程」―断絶的変化―とを区別する必要がある、という。

…第一の過程だけで都市を理解することは、都市の自然発展をそのまま肯定するような宿命論的立場におちてゆくものである。と同時に第一のメタボリックな過程を内在的にもつシステムを考えないならば、システムの変身という第二の過程もその発展する生命力を失うことになるだろう。*10

明言することは避けているが、「第一の過程だけで都市を理解する」人々とは、メタボリストたちを指しており、いつか花開く「断続的変身」に可能性をかけているのは、ほかならず丹下自身である。そしてまた彼の鋭いカンは、「メタボリズム(=新陳代謝)」という言葉から連想される、近代性をのりこえるものとしての生物的なイメージ、あるいは有機的な閉じた生態系のイメージとは対極のどうしようもない現状肯定の残滓を、メタボリストたちの方法の裏に嗅ぎとっていたのではないだろうか。

*1:NK、p.209

*2:NK、p.206

*3:NK、p.208、209

*4:KT、p.66、67

*5:『建築雑誌』265号、明治42年

*6:東海道メガロポリスの形成」1965年、KT、p.68

*7:KT、p.44

*8:「機能主義から構造主義へ」1961年、KT、p.50

*9:KT、p.51

*10:KT、p.51

"ノリのような建築" 東京計画1960以降

従来からすぐれた視点を提出している評論家松山巌は、丹下健三についていくつかのコメントを残している。彼もまた、丹下に憑かれた一人である。1987年に執筆された小論「ノリのような建築」*1は、きわめて興味ぶかい視点を提供している。
松山は、「ポスト・モダニズムに出口はあるか」と銘うたれた座談会*2中に、丹下の発した次の一節にいたく興味をひかれている。

私が情報化社会を意識し始めたころ、1960年ごろ、すでに実感として感じたのは、いままでさらっとしていた空間が、大変ねばっこくて、ノリのような感じに見えてきたんですよ。やや比喩的な言い方ですけれども、で、いままでは空間というのは物を引き裂くものだと思っていたら、空間というのはノリのようにひっつけるものだという実感が強くなってきましてね。

松山は、それ以降の丹下自身が何かその対象をとらえきれていないもどかしさを感じつつ「ノリのような建築とは、丹下が新しい表現をまだそこに見い出せぬように、というよりも表現のない建築ではあるまいか。目に見えぬ政治や資本力によって決定されてしまう建築ではあるまいか」と結論づける。
その見解に書き添えなければならないことがあるとすれば、「ノリのような建築」が丹下によってつくりだされたものなのではなく、丹下が現実認識の過程で発見した、本居的モダニズムの本質にほかならないことだ。
「ノリのような建築」とは、つまり構造派の獲得した「完結しない」「無限にのばすことのできる」ラーメン軸組剛節構造であり、以前から丹下自身はそれを最大の敵とみなしていた。もし丹下に「転向」があったとすれば、それは、そのモヤモヤとした、すっきりしない空間体系に宣戦布告し、果敢に表現を求め続けたあげくの、方法論的敗北の地平に待ちかまえていたはずである。
「ふりかえってみると、私の考え方やその対象とするところは、大きく1960年前後を境にして変わってきているように思える。」と丹下は、論文を年代的にまとめた著作の序文で回想している *3。それは大局的にみれば、彼がいわゆる「アーバン・デザイン」に傾倒しはじめた時期でもあった。

*1:『建築作家の時代』リブロ・ポート発行、p.204

*2:『新建築』1983年9月号に所収

*3:KT、p.3

モデュロールとコア・システム

丹下が、近代「日本国」建築史上において、きわめて珍しいシステム指向の持ち主であることは述べた。そうであるならば、先のような言説も設計方法論という具体的なレヴェルで展開されねばならない。ここではその例として二つのシステムをひきあいに、丹下がそれをどう意味づけていたのかを探ってみることにしよう。

モデュロール…建築家の存在理由と無限定空間批判
通常「日本建築」の特質を語ろうとするとき、それは木造特有の架構について述べねばならなくなる。その柱梁の単純な構成によって区切られたグリッドパターンは―抽象的なレヴェルにおいては―反復させ、つなげることによって限りのない空間を作ることができる方法としてとらえられている。その特質を「無限定空間」*1命名したのは丹下であるとされている。とはいえ、彼自身は「無限定空間」に対して、端緒から一定の距離をおいていた。
設計手法としてのモデュロールとは、全体の空間あるいは空間を構成する建築の各要素のあいだに、関連づけられた秩序体系をもたせるために設定された数系列の尺度である。日本において、早い時期にモデュロールを用いた構成手法―モデュラー・コーディネーション―を採用し、その研究を始めたのが丹下、あるいはそのチームであった。丹下たちにあっては、そのシステムの基本は当初黄金比に求められていた。
しかしまた、広義の意味にあっては、当然同一の基準数値で空間に平面的、あるいは立体的に反復してゆくシステム―つまり無限定空間、あるいは均質空間をつくりだす前提―もモデュラー・コーディネーションに入りえる。丹下はそのようなグリッド・プランニングと彼の追求する黄金比のコーディネーションとの関係、あるいはそれらの差異を次のように説明する。

…しかしこうした秩序というものは、たとえそこに規格性あるいは均一性―ホモジェニティ―を一方で要求するものではあるが、それと同時にそれは、自由と変化、あるいは異質性―ヘテロジニティ―を伴っていなくてはならない。「モデュラー・コーディネーション」1955年*2

丹下は均質空間のもつフレキシビリティーの乱用に注意をうながしているといってよい。なぜなら同一数値による空間構成の方法にあっては最終的に設計者の構想力そのものをも捨象するからである。

…機能は確かに変化する。ここでこの変化するという性格をとらえて空間はその機能の変化に対応してゆかねばならないとする。この点では正しいのだが、ひたすら変化するという点のみに着目して、いわば無特定の機能に対応する空間を創ることを目標とする、…そのためしばしば空間が機能から遊離して独走してしまった。建築が機能から出発するのではなくある特定の性格を有する空間の追求に終始しはじめる。「機能と空間の典型的対応」1956年*3

その「ある特定の性格を有する空間」を丹下は次のように表現する。

…空間を完全にフレキシブルに扱い、いかなる変化にも対応できるよう均質化してゆく方向は、一面ではパチンコ屋が明日には喫茶店になる必要性が出てくるといった、全く不安定な自由競争を基盤にした現在の資本主義社会が、建築に要請する基本的な法則性でもある。(前掲に同じ)*4

丹下はこの文脈で「均質空間」を、現実へ妥協した形式主義にすぎないと批判する。それは建築家の社会的主導性を主張する丹下にとって、まさに忌み嫌うべき建築様式であった。逆に黄金比によるモデュロールは、いわば丹下自身であり、建築家の存在理由でもあった。彼はそれぞれの建築はその条件に対応した「個別性」をもたねばならないとする。建築が「個別性」を持たなければ存在する意味はなく、その「個別性」の中から、社会をつき動かしてゆくような典型を構想力によって創りあげることこそが必要であるとする。なかなか苦しい説明だが、ここでも彼は「構想力―天才の御技」をもちだすことによって、「無限定空間」のニヒリズムに対していたのである。初期の丹下において特にコンクリートをもちいた一連の作品は、以上のような「均質化してゆく空間」という現実認識と、「黄金比によるモデュロール」という構想力の相克*5という点において、評価されるべきであるように思える。
ただいったい「個別性」とは何なのか?存在する建物には建設者が当然対応する。たとえば大型組織事務所の成果物が「同じようなもの」に見えても、世の中のすべての事柄は一回性の中で展開するとみれば、「個別性」は無数に存在してしまう。そこに「構想力=天才の力」は介在する必要がないし、そもそも無意味である。「構想力」をあくまでも「天才―丹下―に固有の力」の中にひきいれざるをえない認識においてはじめて「個別性」は存在しえるだろう、彼のいう「個別性」とはつきるところ「丹下という唯独性」という地平においてはじめて論的な根拠を持っている。「天才-構想力-個別性」と連なる文脈は丹下にとっての「内部」にとどまり続け、おそらくそこから出ることはない。だから「丹下」以外はすべて「外部」にならざるをえない。『MICHELANGELO頌』から始まる天才論はここまでつらぬかれている。
しかしその明晰なイメージは、丹下が「個別性としての建築」の「外部」を意識しはじめたときに崩れはじめる。「丹下にとっての外部」、彼はそれを「都市」と呼んだ。

■コア・システム…手法がフレキシビリティに相対化されるとき
「個別性としての建築」の「外部」、つまり「都市」に彼が着目し始めたのは、実質的には東京都庁舎の競技設計の昭和27年当時であったといえる。
「都市」への意識は、例えば「外部機能vs内部機能」という対立で表され、「広場としてのピロティ」、「中2階のコンコース」という建築的要素がその「外部機能」の範例として採用されたが、さしあたりここで注目したいのはコア・システムである。
一般の事務所建築や工場建築などには、机の配列、工場機械やそれに伴う配線配管などから要求される、グリッド分割のための基準寸法が必要である。そのような整数分割の可能性のない「黄金比によるモデュロール」の取り扱いに悩んでいた丹下は、東京都庁舎においてその現実認識を克服するため、設計方法を大幅に変更する。コア・システムは丹下が、黄金比に象徴される建築の「個別性」を、限界として認識しはじめたときに採用されたシステムである。「空間の秩序と自由―コア・システム」(1955年)*6の説明を要約すると、まず丹下は高層事務所建築―つまりオフィス・ビル―を、「一次的要素」である執務スペースと「二次的要素」であるサービス部分に分割する。その目的は機能的部分を代表する「二次的」サービス部分をコンパクトに集約することによって、「一次的要素」から排除し、執務スペースを「自由にして均一な空間として確保する」ことであった。つまり、それは以前の統一という設計方法の命題から、並存の姿勢へと彼の構想力を一歩後退させたことを意味している。

たとえば、フレキシビリティを獲得することは、執務機能の典型を可能にする一つの解決である。オフィスの執務空間はその範囲内では極度のフレキシビリティを要求している。…この事実を私たちは、機能の本質的な発展が、そのにない手の社会的立場によって規定されると考えたのである。「機能と空間の典型的対応」1956年*7

コア・システムの、均質空間の存在を許容する利点は、丹下のめざしたように高層建築における一つの典型を提出したが、しかし「均質空間」こそ、丹下が忌み嫌った様式であったことに変わりはない。彼はその代わりに、コア・システムによって、初めて建築がその「個別性」の限界から脱却して、「都市と建築とを有機的に秩序づけてゆくための一つの手がかり」となることを強調したが、逆にいえば、彼の構想力が「コア」という関係性を排除されたサービス部分に集中、隔離されることによって、丹下自身が逆に対象化されうる方法論をみずからきり開いてしまったこともあわせて指摘できるだろう。
コア・システムは以上のように両刃の剣であった。しかし同時にまた、コア・システムのもう一つの目的は、耐震構造*8による本居的な専制が構想力にもたらす束縛―余りにも日本的な状況―を回避することであった。

…日本の構造技術者や構造学者は、構造的な意味からだけで、ピロティを否定し、また開放的な外壁処理に反対していた。また地震国の日本では、こうした構造家の主張は、ほとんど絶対的であった。
私達の課題は、これに挑戦することであった。ピロティをもち、しかし上部の開口部も開放的であり、しかも耐震的である構造を探求するということであった。
「空間の秩序と自由―コア・システム」1955年*9

確かに丹下はその目的を達成した。そして同時に、勝利を丹下にもたらしたコア・システムは、逆に本居的モダニズム御用達のグリッド状のスーパー・ブロックを、見返りとして並存させることになった。

*1:建築家広司が批判的に言及する「均質空間」も、同じような意味で語られることが多い。

*2:NK、p.228

*3:NK、p.239

*4:NK、p.240

*5:彼は当時の言説において、それを「統一」と表現している。

*6:NK、p.221~227

*7:NK、p.242、初出データによるとこれらは1954~56年までの雑誌『新建築』に掲載した論文をまとめたもの。

*8:第2章で詳述

*9:NK、p.224、225

伝統論争…「篤胤的なもの」  

そのような本居的土壌との対決という意味において、50年代の丹下が展開した伝統論を読解してみることは興味深い。もちろん「篤胤的なもの」などという存在があるわけないのだが、本居的『自然』の呪縛から離脱してゆこうとするとき、その丹下の姿勢は「日本」的文脈の中においては篤胤に近い手法をとる。

■私が伝統だ

…だが嘆いたって、始まらないのです。今更焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
…自分が法隆寺になればいいのです。『日本の伝統』昭和31年

これは、東京都庁舎(計画時:昭和27年)において、丹下と共同戦線を張った、岡本太郎法隆寺焼失に関してのコメントだが、この「自分が普遍的である」とする態度は丹下の伝統論にも通底しているモチーフである。

伝統ということを創造という水準で考えてゆく場合には、伝統というのは作家の内部にあるのではないか、そういうふうに考えたいのであります。
…ですから作家の外にある桂離宮ではなく、作家の内部にある桂が創造的に働くのです。それは、作家が自分の内に形成しようとする方法を通して自分の中に再構成して持っている桂なのであります。そのとき作家は伝統を内部にあるリアリティとして感ずるはずであります。だから、作家の中にある桂離宮というものと、外に存在している桂離宮というものとは、おそらく違ったものではないかと思うのであります。「伝統と創造について」1955年 *1

ここで丹下は、本居的知識人に共通する「伝統」に対する無批判的なつきあい方ではなく、「日本」的素材を「天才」という自由な場の枠の中で、あくまでも主体的な判断にしたがい取捨選択してゆこうとする態度において桂を述べている。それは「創造の契機」を「こちらがわ」にたぐりよせようとするものであり、大東亜記念造営計画案においても特徴的であった、「天才」にとっての「外部」のすべてをあくまでも素材とみること、を可能にしている。

■「伝統」の名の下の「世界」
丹下がコンクリート軸組構造に対し、そこに「日本的なるもの」を加味しようとしたことは周知の事実とされている。しかしその細部を検討してゆくと、その論理構造は単純化された従来のイメージからは遠いものであることがわかる。昭和27年竣工の広島平和会館本館のコンクリート軸組の設計方法に関して、次のような記述がある。

本館の時には、この陳列館との対比というか男性的なものに対して、女性的なものとでもいうか、そんな気持ちから、軸組構造をそのまま視覚化してみようという試みの気持ちをもったのである。…日本の柱・梁構造のプロポーションなどについて調べたり、見に行ったり、また、木割などといったのはそのころであったと思うが、コンクリートの架構が日本の伝統的な木割りに合うなどということは考えられないことであった。それにもかかわらず、木割りなどのことを持ち出したのは、自分を勇気づけるためでもあり、またコンクリートによる軸組架構が、もっと広く日本の現代建築に出てきてもよいし、それをやろうとする人たち―自分を含めて―の気持ちの支えになるだろうと思ったからであって、私自身は、黄金比を利用しながら、私の視覚に耐えるものを探していた。「鉄とコンクリート」1958年*2

日本的なるもの」の追求に黄金比を借用したケ所は伊東忠太ばりで、それだけでもおもしろいが、より注目すべきは、コンクリートに合わないと知りつつ木割を手法として援用し、しかし黄金比と並列した位置づけしか暗にみとめていないことに象徴されている、丹下の「日本」に対する眼差しの冷醒さであろう。そのような「作為」的な態度、本居的な「日本」と対立するあり方を、この論考では近代における篤胤的なものとしてとらえてきた。しかし篤胤の場合、「神」としての「日本」に「世界」が膝間づくかたちをとっていたが、ただし丹下にとってそのような狂的な「日本」信仰は微塵もない。あくまでも自分が主体であり続けるかぎりにおいて、全ての「世界」の素材は等価なのである。

私達は苔寺において、深い瞑想に引きこまれ、この石庭において自己を失ってゆくような感動におそわれるのである。そのような芸術的な高さを私達は否定できないであろう。それにもかかわらず、私達がそれに強い抵抗を感じるのはなぜだろうか。
それは、現実から私達を引き裂き、さらに自己を失わせてしまう魔力に対してではないだろうか。
「日本の伝統における創造の姿勢―弥生的なものと縄文的なもの」1956年*3

そして丹下の「主体的であろうとする態度」の底にある「日本―本居」的特質への嫌悪は、丹下自身が「もののあわれ」に対してきびしい批判を加えていることからもうかがえる。

■「もののあわれ」の克服…「日本」的知識人批判

この人間と自然との無媒介な合一、「もののあわれ」の心情からは、外界を客観的にみる科学的な考えも、個性の自覚から生まれる社会的関心も形成されない。この上層文化の伝統が、しだいにいわゆる「日本的」とよばれる文化形態に形式化してゆく。「香川県庁舎の経験を通じて―伝統の克服」1959年*4

伝統論争中に現れた、「弥生的なるもの」と「縄文的なるもの」という二項対立は、丹下の場合、特に「もののあわれ」から脱却できない「日本=本居」的思想状況についての徹底的な批判にその照準がむけられていた。弥生的文化とは、ここで上層文化によってもたらされた「人間と自然との無媒介な合一」指向を基調とする「もののあわれ」思想の系譜として規定されている。丹下はその一例として「日本の庭」を紹介し、その類型化された自然に自己の情緒を写しているにすぎない卑小さを断罪する。
しかし彼が批判した「庭」に対する「自然の模写」という一定の観点は、実は近代日本のナショナリズムの系譜によりかたちづくられてきたものであり、その意味において丹下の「庭」に対する批判こそが逆に近代的な範疇を出るものではなかったことは、後に僕たちにとって大切な、ある乖離をうみだす。しかしその前に、ここでは丹下が「もののあわれとしての庭」に対する批判的な視点を持ったことにまず注目したい。なぜならそれは彼に、近代における「日本=本居」的知識人総体に対しての「超克」を標傍させたからである。

…江戸のながい権力体制と鎖国の中では、民衆のエネルギーも「風流」でしかありえなかった。明治の文明開化もこれをくつがえすことができない。西欧の外向的な自然主義も、内向的、私小説主情主義として受け取られてゆく過程が、これをよく示している。
…裏がえしにされていた民衆のエネルギーがこの戦後、はじめて、不十分ではあるが、解放されたのである。この解放されたエネルギーは、まだこんとんとはしているが、しかし伝統の否定者、破壊者として、歴史の表面に現われてきた。それはあるいはロックン・ロールへ、またロカビリーへ、と転々とそのはけ口を見いだそうとして、こんとんとしている。画家も作家も、若い世代は、実験に身をかけて、自己を主張しはじめた。上層文化の伝統、弥生的伝統のにない手の目には、これらは百鬼夜行の混乱として、にくにくしげにうつるかもしれない。しかし私はこのこんとんとしたエネルギーが、歴史的必然性をもって、日本の伝統を破壊し、革新し、日本の伝統を正しく受け継いでゆく母体となることを信じて疑わない。
香川県庁舎の経験を通じて―伝統の克服」1959年*5

めまいがでるような近代批判だが、そのポーズを通り越して、やはり丹下にとっての真実を映しだしている言説だろう。丹下は、「弥生的―もののあわれ」という「日本」文化に対立する「縄文的なるもの」を、アノニマスな「民衆」のエネルギーにむすびつけたから、当然「民衆」文化をもち上げずにはいられない、もちろんそれは「まだこんとんとはしている」という注釈つきで。さきに僕が丹下を「闇屋の親分」よばわりしたのは、決してイロニーではない。以上のような実践に「日本を対象化し得る者=闇屋」としての一定の共感を憶えるからである*6
しかし彼の「弥生vs縄文」という対立は、前述のように二元的思考の粋を逸脱しえなかった点において、奇妙なズレを生むことになる。つまりその強固に二元的な対立が、「弥生的」範疇としての「日本」文化総体を単純に克服すべき問題としてとらえさせた。そして「縄文的なるもの」のモチーフが「民衆」という近代の袋小路に密接に連関していることは、丹下をしてその方向を余りに直線的な進歩史観にむすびつける役目を果たしたからである。

日本の歴史のなかで、私たちは多くの変革の時期を経験している。…そうして現代の歴史家たちは鼓舞するようなものを伝統の姿勢のなかに求めようとしてきた。しかしそれを私達は過大に評価してはいけないのである。いつの変革の時期のあとにも、そのような革新的な人たちの積極的な姿勢は、「もののあわれ」に回帰し、また「すき」、「さび」に、そうして「わび」にまた「風流」へと回帰してくるのである。そうして変革は常に不徹底なものにしかなりえなかったのである。「日本の伝統における創造の姿勢―弥生的なものと縄文的なもの」1956年*7

近代における「日本回帰」批判としては妥当だが、「日本文化」総体の批判としては近代「日本国」的誤謬がふくまれている。たとえば現在僕たちは、日本中世における文化のありようが異様なほど豊かであったことを知っているし、それは丹下が批判したような、「自然の模写としての庭」に代表される、ニヒルな近代「日本国」史観の幻想の外にあるからである。

この「もののあわれ」から「風流」にいたる伝統は、今日、私達の「内部」にまで届いているのである。ここからデカダンスへの距離は一歩にすぎない。(前掲に同じ)*8

もののあわれ」批判として確かだが、くりかえしていうなら、丹下はそのとき入れなくてもいいものまで「弥生―もののあわれ」の範疇に放りこんでしまった。「日本」文化を十把ひとからげに、破棄すべき「デカダンス」としてみたときに、捨象されるものは大きかったはずである。それはいいかえれば、「闇屋」が己の足元を振り返らなくなったことを意味しているのかもしれない。

バラック批判
その弊害は、日本のバラック文化を「もののあわれ」との連関において批判する、それ自体としては注目すべき論の結末に皮肉な解答を用意している。

…日本の文化一般にわたっていえることだと思いますが、実体のなさ、別の言葉でいえば、観念的といった性格が非常に強いということです。
…ですから実体としての伝統ではなくて、実体の背景になるようなかたちとか、観念とか、そういうものが継承されているわけです。「現代都市と日本の伝統―伝統の克服」1965年*9

まず彼は、従来の「日本」の住宅文化にみられるバラック指向を、実体性なきものとして非難する。これは僕のような怠惰な一面を持つバラック共感者にとって耳の痛い至言であるように思える。例えば僕たちがバラックについて抱く美学が、論理を構築しえない、まさしく本居的『自然』に傾いてゆくような代物であるとしたら、それは決して丹下をのりこえるような類のものでないことだけは確かにおもうから。

ただ過渡期にあたって、たいへん日本的な困った問題をよびおこしています。それは先ほど私が申しました日本の伝統です。我々の生活環境をバラックだと考える、バラックでいいのだと考えるそういう考え方が、いまなお根強くあります。それが一つには我々の生活環境を非人間的なものにしているわけであり、また都市の住宅地や郊外に広がりつつある住宅地を性格づけております。(前掲に同じ)

しかしその一方で、僕たちがバラックに対して抱く、「主体的」な場としてのイメージは決して、後向きというだけではすまされない意味を持っていることもまた確かなはずだ。実はそのバラックについての積極的なイメージは、丹下が行ったバラック批判を意識の上でのりこえようとしたときに生みだされたものであるから。

日本では現在都市問題がいろいろな角度から論じられておりますが、私は基本的には世界史的な、あるいは文明史的な大きな軸の中で考えてゆきたいと思います。…ただその過程で私達が人間疎外的に感じるいろいろな出来事がおきていますが、その大部分は文明の仕業ではなくて、我々自身の伝統の仕業であるというふうに私は考えているわけです。
…私は現代の文明は、新しい、人間的な価値をつくりはじめているといっていいと思います。決して現代文明は、人間疎外的でないといいきっていいと思います。(前掲に同じ)

この1965年の時点で、丹下健三の基本的姿勢は、方法論として、一見連続しながらも、以前とまったく逆の方向を指向しているように思える。それは丹下が自らの立脚点になんらかの変更を加えたものとみることができると同時に、執ように繰りかえしていた「近代批判」者としての丹下が、本居的な『自然』を批判する過程で、逆に本居的近代にかぎりなく近づいていった過程なのではないか。その過程をより具体的な建築手法の領域において検証してみよう。

*1:『人間と建築 デザインおぼえがき』p.78、80 また本稿で引用した丹下健三の言説のうち、掲載雑誌の記入のないものは以下の文献に編纂されているものを使用した。1、『人間と建築 デザインおぼえがき』昭和45年、彰国社。以後NKと略記する。2、『建築と都市 デザインおぼえがき』昭和45年、彰国社。以後KTと略記する。これらはいずれも代表的な丹下の言説をまとめている。NKが特に1950年代に書かれたものを、KTは1960年代に書かれたものを収録している。各言説の題名および発表された時期は、上記2点に記されているデータをもとにした。

*2:NK、p.198

*3:NK、p.124

*4:NK、p.284

*5:NK、p.286

*6:よくいわれることだが、丹下の言説あるいは作品が一見独創的でありながら、実は他の優れた諸表現からの「借り物」であるというような評価は基準そのものが完全に間違っていることを改めていっておかねばならない。なぜなら以上のような評価は、その分析方法として構造的に見ることのない表層的なものだからである。丹下の伝統論は彼の「建築構想論」の構造に深く連動しており、その点において少なくとも思想的にはたらいている。

*7:NK、p.129

*8:NK、p.129

*9:NKに所收。初出データによると、1956年6月、60年9月のそれぞれの『新建築』掲載記事と1965年におこなわれた講演会の筆記をもとに構成されている。雑誌掲載部分はごく一部にしか用いられていないので、引用した部分は65年時点の部分と考えて妥当と思われる。

民衆論争…「MICHELANGELO頌」との連関

では、丹下は「民衆」に対してどのような姿勢をとったのだろうか。
実は、すでに過去のものと思われていた彼の建築論「MICHELANGELO頌」での、「創造」における「天才」の社会的位置づけがそのまま踏襲されている、あるいはより整合化されて表れているといっていい。「戦中」期に獲得された方法論は、この昭和31年の時点にまで連綿とうけつがれている。

■「創造」は「民衆」の側にはない。

民衆は、じぶんたちのすんでいる住居や都市について、それに満足してはおりません、何とかならないものか、あるいはもっと積極的に何とか克服してゆきたいと考えているのですが、その"何とか"をあらかじめは知らないのです。欲求、あるいはポテンシャルなエネルギーといってもよいでしょうが、それはもっているのですが、具体的なイメージとしてそれを、あらかじめは知らないのです。「おぼえがき」*1

丹下がこの場で目指したのは、徹底的な日本的マルクス主義者、彼の言葉で言えば「似而非えせ現実主義者」に対する批判であった。丹下は彼らのもつ「民衆に拘泥する姿勢」に、いわば表現することへの虚無をもたらす新たな『自然』としての「民衆」像を感じとった。建築の「創造的契機」を「民衆」の側にゆだねることは、ストレートに建築家の存在理由を無化することであり、その構造に丹下は「MICHELANGELO頌」で獲得した「天才」論を援用して風穴を開けようとする。
つまり「MICHELANGELO頌」において創造の源泉を「現実」におく代わりに、より高き現実として仮想された「世界の根底の意志」に求めたことを思えば、「現実としての民衆」こそが創造の契機を持つという理論をかたくなに拒否している彼の言説との連続点が浮かびあがってくる。また「ポテンシャルなエネルギー」とは、「世界の根底の意志」におきかえることができる言葉だが、決して「民衆」はそのエネルギーを形象化することはできない、と丹下はいうのである。

■「天才」を根幹に据える方法論
そして丹下は、目に見えない「ポテンシャルなエネルギー」を顕在化させることこそが建築家の役割であるという。

建築家は現実の矛盾―民衆と建築のからみあいのなかにおける矛盾―その矛盾の中に欝積して潜在している民衆のエネルギーに、具体的なイメージを提示しようとする態度と問題意識をもって、創造にたちむかうことによって、民衆にむすびつくことができるのです。(前掲に同じ)*2

当時の丹下の姿勢は「建築家は環のなかにはいった体験者であり、同時に、自らの責任において、環の外に立った創造者でなければならない」*3というテーゼに代表されるだろう。このような建築家のイメージもまた、「MICHELANGELO頌」における「世界の根底の意志につき動かされる歴史的使命を持った創造者」という建築家像に抵触するものであった。
その意味で確かに丹下の独善性を非難することは正しいが、ただそれだけに過ぎないことも僕たち批判者は知っておかねばならない。いささか反語めいているが、丹下が戦中から戦後にいたる流れの中で、おそらく持ちえなかったであろう「転向」の意識は、逆に彼の「建築家」についての認識の強度をものがたっていはしまいか。丹下が「戦中」から多くのモダニストたちが傾いていった「日本」的情緒にまみれているようでありながら、実は外にいたであろう事は想像に難くない。彼は、すでに「完全に醒めたる、歴史的な眸をもって 」*4、一切の「外部」を冷静に対象化していたのだから。

■「内的リアリティー」と「構想力」
丹下の丹下たるゆえんは、その「完全に醒めた」眼差しにあった。従来から「日本」的知識人を「構想力の欠如」という点において批判することは、もはやありふれた行為である。しかしもしそうであるなら、本稿が執ように追いまわしている国学的『自然』にそれはつながっているはずだ。「作為」を『自然』のまなざしによって相対化しようとする国学譲りのニヒリズムは、たてる人―建築家―にとって命とりになりうる。この時すでに具現している丹下のシステム指向は、それへの意図的な対決姿勢としてみるとわかりやすい。

…標準設計になる個々の具体例が問題なのではなくて、それを貫いている方法的体系を重視したいのです。
それが方法的体系をもたない限り、いかに個々の設計例を民衆の生活にぶっつけてみても、そこからえられる検証は不確定であることをまぬがれないのです。…それは、方法をさらに高め、また豊かにしてゆくという、体系的な蓄積にはならないのです。
…このような方法的体系に貫かれているイメージを、私は別のところで内的リアリティといっておりました。そうして、内的リアリティを外部世界にぶっつけあうことによって、内部と外部の創造的統一が可能である、それが創造の倫理である、などといったのはこういう意味なのです。(前掲に同じ)*5

丹下は「現実の認識からでてくる思想、あるいは世界観」を「姿勢」といい、自らの仮説のイメージ体系である「内的リアリティ」と「姿勢」との統一を「構想力」という言葉で表現する。つまり「構想力」とは自らの「構築の意志」を強固な方法論的実体性―認識と仮説との相克―をもった体系に定位させる力である。その「構想力」へのヴィジョンを、「日本」的文脈の中に位置づけてみたとき、その意義ははっきりするだろう。
それは、なぜヒロシマがまぶしかったかということへの丹下からの解答でもある。広島平和会館原爆記念陳列館が、文字どおり屹立しているように、彼の構築作業は可視的である。しかし僕たちはそんなあたりまえのことがなされていない「日本=本居」的な思想状況をいたるところに見る。それはいわば思想のブラック・ホールとして、曖昧なもやの中で蓄積の作業を無化する制度としてはたらく。丹下の積み上げた論理は、可視的であるがゆえにイサギよい。それは僕たちが自由に入り、検討し、ぬけだすことのできるものだ。丹下を問わないことは僕たちの怠慢にすぎないのである。

*1:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.20

*2:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.23

*3:『新建築』1955年1月号における発言

*4:「MICHELANGELO頌」、本稿第3章に詳述

*5:『建築文化』119号、昭和31年8月、p.23

東京計画1960まで

丹下はグレートだった。そう正直にいったん、認めてしまっていい。おそらく彼だけが特有の方法論とたぐいマレなる構想力をもって戦後の混乱期を一点のよどみもなく突き進むことができた。もちろん彼の「天才」指向を批判することは正しいし、たやすい。とはいえ、それゆえに彼だけが持ちえた可能性の場を過小評価することが積極的とはいえない。
例えば、戦後10年間ほどの建築に関する雑誌をざっと眺めればわかることだが、彼の作品が発表されるごとに明らかに、建築総体の質的な転移がおこっている。彼の新しさは、建築界の空気をも変え、その方法論的強度はその明快さをともなって、たちまちに様式的なフォロワーをうんでいる。

昭和20年代は、簡単にいってモダニズム派とマルキシズム建築運動の協調によって多くの実践的活動がみられたわけだが、後にモスクワ大学の様式主義*1によって噴出するいわゆる「リアリズム・民衆」論争は、それらの運動の論理的破綻の端緒を生んだような気がする。
昭和31年8月、雑誌『建築文化』119号誌上で発表された特集、「建築設計家として民衆をどう把握するか」もそのような一連のながれに対する試行であった。ここでは池辺陽西山夘三丹下健三といった当時の論客たちが意見を述べているが、マルキシズム建築運動の理論的主導者であった西山は「民衆」と「建築家」の関係についてこう言及している。

今日、良心的な建築家は、自分の作品について民衆から、たとえば否定的な批判であっても、なにか、積極的な関心と反応の示されることをねがっている。だが深いなやみは、実は民衆が建築家の努力に対してほとんど反応しないということである。「建築を国民に結びつけよう」

西山は、建築家のスター主義がはびこることによって、建築家が「民衆」から離反してゆくことを嘆いているが、とはいえ西山自身、両者がどのような協調関係を結び得るのか、その方法を語らない。当時、先鋭的なマルキシズム建築運動家であるほど、建築家としてのプロフェッションに悩むという構図があったとみてよい。なぜなら彼らの階級理念として、「建築家」は「民衆」と同一であるという、意固地なまでの心情があった。彼らにとって「民衆」は奉仕すべき対象であるのだが、西山のいうとおり、彼らの行く先を決定するであろうはずの当の「民衆」からは何のリアクションもないのである。つまり「民衆」は彼らが仮想した観念的存在なのだから、そう都合よく口をひらきはしない。西山は「民衆」という対象の実感を、朝鮮戦争の軍需景気による経済回復、それによる空前の第一次ビル・ブームと反比例するように、失いつつある。意地悪な言い方をすれば、西山の言説は「建築家」の構想力を、仮想された形而上的な存在―民衆―にあけわたしてしまった時にあらわれる、方法論の頼りなさを如実にしめしている。

*1:ロシア革命後、ソヴィエトではいわゆるロシア・アヴァンギャルドが建築における指導的役割をはたした時期があったが、スターリニズムが台頭するにつれそれに代わって「より民衆に近いものを」というテーゼの中で、「反動」的でもある帝政時代の様式を取り入れようとする潮流が起こった。モスクワ大学はその一例であり、ロシア一の総合大学という権威のシンボルとしてその様式が採用されたことに、世界のあちらこちらに生息していた「モダニスト」たちに賛否両論を巻き起こした。その問題の根幹は、打倒すべき体制の文化が、身を捧げるべき「民衆」の文化に直結してしまった「理論」上記妙な事実にある。